年末年始は家族でロサンゼルス
今年の年末年始は、思いがけず家族4人全員揃ってロサンゼルスの主人の家で過ごすことができました。
もともとは、2月末に行く予定でフライトを取っていたのですが、年末になって突然2月1日付で主人の帰任が決まったため、慌てて日程変更してバタバタと出国したのです。
この時期、燃料サーチャージが1人10万円もかかったため、ANAの直行便は、エコノミーのくせに1人35万以上という高騰ぶりでしたが、主人の帰任前の最後のチャンスと思えば仕方ありません。
目次
- 1日目(12/28) 出発、ロス到着、スーパー
- 2日目(12/29) ハリウッド、ビバリーヒルズ、サンタモニカ
- 3日目(12/30) ジョシュアツリー国立公園
- 4日目(12/31) 近所の散策
- 5日目(1/1) ポイントヴィチェンテ、ロングビーチ
- 6日目(1/2) カリフォルニアサイエンスセンター
- 7日、8日目(1/3、1/4) 出発、帰国
1日目(12/28) 出発、ロス到着、スーパー
羽田21:05発のANA直行便で一路ロスへ!
スーパーフライヤーズの特典で出発前はラウンジで無料の晩御飯とシャンパンをいただき、ひとときのセレブな時間を楽しみました。
本当のセレブは、この後ビジネスクラスで更にゆったりするわけですが、我が家は貧乏エコノミーなので、ラウンジは最後の寛ぎエリア。
夜間飛行なので東京の夜景がとってもキレイ!
ロスまでのフライトは本当に長い!
日系の航空会社なので、機内でのマスクはまだまだ必須。
飛行機は偏西風の影響か、1時間も早く出発と同日の13時頃にはLAXに到着!
9時間で着いたのはとてもラッキー。
入国はとっても簡単。一瞬で自由の身に!
到着ゲートまで主人が車で迎えに来てくれたので、あとは20分くらいで主人の家があるトーランスの街に到着。
主人の住むアパートの2階のベランダからの眺め。ロの字型の部屋配置で、中央にプールのある中庭があります。
椰子の木には野生のリスが住んでいます。
とりあえず近所のスーパーに行き、晩御飯を調達。
「ふりかけ」ってアメリカでも「FURIKAKE」なんだ…?
結局、もう疲れていて自分で作りたくないので、完成品を購入。
ローストチキンと、サーモンソテーと、サイドディッシュをいくつか。
ピザは、食べる前に家のオーブンでちょっと温めようとしたら、火加減がわからず炭に…!
2日目(12/29) ハリウッド、ビバリーヒルズ、サンタモニカ
2日目。ロスと言ったらやっぱりハリウッドは外せないだろうということで、車でハリウッド方面に出発!
途中でグリフィス天文台へ。
あいにくの曇り空だったけど、なんとか遠くにハリウッドサインが見えます。
ここの天文台は「ラ・ラ・ランド」という映画の中にも登場しました。
夜景が有名なようですが、午前中に行きました。
そしてハリウッドへ!
ここはアカデミー賞の行われるドルビーシアター。
チャイニーズシアターの前には有名人の手形や足形がいっぱい。
これはハリーポッターのキャストの物。
マリリンモンローは、こうして手形を残してたんだ〜?
…ということで、私もモンローの手形に手を合わせてみた。
ブランチに「ハードロックカフェ」に入った。
開店と同時に入ったので、まだガラガラ。
壁には有名アーティストの所持品の数々が。
飲み物だけ…と思ったけど、ついナッチョスとアップルクランブルケーキを頼んだら、物凄い迫力のボリュームだった…!
美味しかったけど…
これをみんなで完食した結果、夜までお腹いっぱいで何も食べられなかった。
セレブ達の豪邸を眺めながらドライブ。
12/29ということで、まだクリスマスのデコレーションが残っていました。
そして海岸へ向かい、サンタモニカへ。
ここは昔、ルート66の終点だったそうで、こんな看板の前で写真を撮るのがお決まりのようです。
サンタモニカの海は残念ながら青い空が見えず、暗いイメージになってしまいました。
でもピアにはお土産物屋さんがいっぱいあり、賑やかでした。
3日目(12/30) ジョシュアツリー国立公園
3日目はちょっと遠出をして、ジョシュアツリー国立公園へ。片道3時間くらいかかる上、国立公園内は車で移動するので、唯一アメリカで運転できる主人は、トータル12時間くらい運転する羽目に…。
この辺りは砂漠で何もなく、風が強いようで、びっくりするほど多くの風力発電のプロペラが見えます。本当に何百もあって壮観です。
入口のトールゲイトで車1台につき30ドル支払えば、あとは公園内はどこへ行くのも自由というシステム。
でもこの日はゲートが渋滞していたので、途中から料金の徴収がなくなり、レシートのない人は帰りのゲートで支払うようにとのこと。
(結果的には、帰りのゲートも渋滞したため、途中から料金の徴収がなくなったため、無料で一日遊ばせていただきました。笑笑)
ゲートを入ると岩だらけの原野にポツポツとジョシュアツリーや低木が生えています。
こういう岩場ポイントがいくつもあって、車を止めては岩登りをします。
家から簡単なお弁当を持って行ってキャンプサイトのような場所でひと休み。
やっぱりおにぎり弁当は最高〜!
これがジョシュアツリー。
結構頑張って高い岩に登りました。
4日目(12/31) 近所の散策
この日は天気が悪かったので、遠出はやめて、家の近所で過ごしました。
家の前の大きな公園の駐車場では週に二回ファーマーズマーケットが開かれるので、行ってみました。
朝から雨だったせいか、今日はお店が少なく、お客さんもポツポツ…。ちょっと寂しい。
息子がワクチンを2回しか接種していなかったので、彼だけは帰国時にPCR検査の陰性証明が必要だったため、ささっと近所の検査場に行き、検査を済ませ、一安心。
ちなみに私と娘は3回接種しているので、検査の必要はありません。検査は150ドルもかかるので、一人分で済んでやれやれです。
娘が美味しいシーフードが食べたいと言うので、近所のレドンドビーチへ。
ロブスターテイル、マグロのソテー、白身魚のクリームソース、エビのパスタをオーダー。
どれも美味しかった〜
5日目(1/1) ポイントヴィチェンテ、ロングビーチ
美味しいパンケーキが食べたいというので、「オリジナルパンケーキハウス」へ。日本にもお店があるのだけど、アメリカのお店はちょっと違うようでした。
とにかくパンケーキが大きくて、ど迫力でした。
ダッチベビーというパンケーキと、リンゴのパンケーキと、オムレツと、コーンビーフ炒めをオーダー。
美味しいのだけど、食べきれず、ドギーバッグさせていただきました。
それからちょっと南下して南の先の岬ポイントヴィチェンテへ。
この日は風が飛び切り強くて、大変でした。
灯台もあるのだけど、中には入れません。
岬の先端の公園の遊歩道を強風に負けず散歩。
海が美しい!
ここからはホエールウォッチングもできるようで、双眼鏡を持った人もいましたが、私は鯨は見つけられませんでした。
この後、東に進み、ロングビーチまで行って、トーランスに戻りました。
気持ちの良いドライブでした。
6日目(1/2) カリフォルニアサイエンスセンター
いよいよ最終日!
朝は家の前の公園へ行ってリスと遊びました。
リス達は人間に慣れていて、散歩していると自分からこっちに走って来て、餌をねだります。
予め殻付き落花生を買い込んで行ったので、リス達に大人気でした。
本当に可愛い。
それから車で20分ほどの所にある「カリフォルニアサイエンスセンター」へ。
ここの凄いのは、入場無料な事です!
戦闘機とか、着陸船とか、実物がいっぱい展示されてます。
数多くの任務を全うしたエンデバーがドーンと展示されてます。凄い!
これが無料で見られるって、どんだけ懐が大きいんだ?
帰りに「INーNーOUT」ハンバーガーショップへ。
ここはアメリカで大人気という事で、行ってみました。
物価高のアメリカにしてはリーズナブルなお値段でびっくり。
この店は、オーダーを受けてから作るので、若干待ち時間はありますが、できたてで美味しいのです。
これは普通のチーズバーガー。お肉がこんがりしていてビーフの味が生きていて、野菜もたっぷりで、納得の美味しさ!
割と小ぶりで、ペロリと食べられます。
この日は最後にスーパーやホームセンターなど、現地のお店をぶらぶらし、家で軽く夕食を済ませて、夜9時頃に帰国のために空港へ向かいました。
空港では最後にラウンジで一休み。
やっぱり日本のラウンジの方が美味しい。
免税店のフロアが見下ろせます。
0:05のフライトでしたが、免税店は23:30まで開いていました。
7日、8日目(1/3、1/4) 出発、帰国
予定では早朝5時過ぎに羽田着でしたが、帰りも1時間も早く到着してラッキー!
4時台の到着便はほとんどないので、空港も空いていました。
Visit Japan というウェブサイトに予めワクチン情報などを登録しておき、この画面が青ければ、入国手続きは一瞬で完了します。
前回、3月にロスに行った時は、My SOS というアプリだったんですが、やはりアプリだと外国人が使うにはいろいろ問題が多かったからアプリではなくウェブ版にしたのでしょうか。
まだまだコロナ禍ということで、日本では多くの人がコロナの事を気にしていますが、アメリカでは、コロナは完全に過去の遺物になっていました。
今回の旅で、飛行機の中と羽田空港以外では、一度もマスクをしませんでした。
ハンバーガーショップの店員ですらマスクをしていない人がいたくらいでした。
日本に帰国して、またマスクの生活をするかと思うと、ウンザリしてしまいます。
本当に夢のように楽しい家族みんなで過ごす年末年始でした。
コロナ禍で行ったロサンゼルス
2020年から、コロナ禍で海外旅行ができなくなって早2年…。第5波、第6波と収束する事なくまだまだ当分は海外旅行は無理かなあ…と半ば諦めて暮らしていましたが、突然ロスへ行けることになりました。
- 突然訪れたチャンス
- 出国前あれこれ
- いよいよ出国
- 到着日(3/18)
- 2日目(3/19)
- 3日目(3/20)
- 4日目(3/21)
- 5日目(3/22)
- 6日目(3/23)
- 7日目(3/24)
- 8日目(3/25)
- 到着日(3/27)
突然訪れたチャンス
2022年3月18日から3月27日まで、私はロサンゼルス旅行を決行しました。
東京は3月21日に蔓延防止が解除になりましたが、出国時はまだ蔓延防止解除前という状況でした。
私を含め、恐らく日本中の誰もが、まだ外国へ行くのは無理だろうと思っていたこの時、私には突然ロサンゼルスへ行くチャンスが訪れたのです。
私の主人は、2021年4月7日、コロナ禍にも関わらず、ロサンゼルスへ転勤になりました。
この時期に海外転勤は絶対ないだろうと思っていたのに、予定通り転勤は決行されました。
主人の会社では、海外赴任中は年に一度日本に一時帰国することが許されています。旅費はもちろん会社負担です。
でもコロナ禍という事で、この一年、一時帰国のチャンスがなく、今年の4月7日を過ぎると、今年度分の一時帰国の権利が消えてしまうという状況でした。
2月までは、両国間の出入国では、隔離が実行されていたため、一時帰国は現実的ではなかったのです。
ところが、この3月、ワクチンを3回打っていて、PCR陰性証明を提出すれば、隔離が無しに変わった為、突然一時帰国のチャンスが訪れたのです。
しかし、そうは言っても主人はそう簡単に急に会社を離れられず、このままでは権利が消滅してしまうということで、「家族の呼び寄せ」という制度を利用して、私が逆にロサンゼルスへ行く事にしたのでした。
出国前あれこれ
3月初めに連絡を受け、私は急遽航空券を手配し、手続きを開始したのですが、これが大変な作業でした。
ANAのウェブサイトから航空券を予約したのですが、サイト上には渡航に関しての諸注意が山ほど書かれていて、私は一体何をすれば良いのか、よく分かりませんでした。
出国時と帰国時に、過去になかった手続きがいろいろ必要なのです。
誓約書をダウンロードして記入する必要があるのですが、全部英語で8ページくらいあり、目が点になりました。これを読んで必要個所にチェックを入れて、個人情報を記入します。
更にロサンゼルスは独自に入国時に特別な書類が必要で、事前にネットで滞在に関する情報を細かに入力して提出しておかなければなりません。
更にアメリカへビザ無しで滞在する場所は、ESTAというのを申請する必要があり、これはかなり詳しい身辺調査という感じで、入力も大変だし、14ドルの申請費用もかかります。更に申請後は、承諾されるのを自分で再度サイトを訪問して確認しなければなりません。
お金を払って代行でやってくれる会社もあるほど面倒くさい作業です。
そしてワクチン証明です。運良く私は3月初めに自身の会社で3回目のワクチン接種を終えていましたので、これは問題ありません。
最後に一番面倒だったのは、PCR検査でした。これはアメリカへ行く場合は出国の1日前以内に受ける必要があります。つまり当日か前日です。はっきり言って、めちゃくちゃ忙しいです。しかも、適当に近所で受ければいいと言うわけではなく、アメリカ専用の陰性証明を出してくれるクリニックでやらなければなりません。ANAのサイトでは3つほど検査機関が紹介されていましたが、そのうち一つはアメリカには非対応となっていたくらいです。きちんとした陰性証明がもらえなかったら元も子もないので、私は家から近いわけでもないけれど、浜松町駅前のクリニックを予約しました。検査と陰性証明で22000円でした。
私は出国前日も出社だったので、会社が終わって急いで検査に行きました。何しろ検査は18:30までなので、大変です。
14時までに検査をすれば数千円プラスすると、結果を検査当日にもらえるのですが、私は仕事で夜の検査しかできなかったので、結果は出国当日の13時から18時という事でした。
幸い、深夜のフライトだったので、これでも辛うじて間に合いましたが、昼の便だったら間に合わないし、仮に陽性だったりしたら、出国直前で引き返す羽目になるわけです。本当に全てがギリギリの計画です。
…が、幸い私は出国当日の13時に陰性のメッセージが届き、数時間後にメールで陰性証明も届き、印刷する事ができました。
いよいよ出国
エアラインカウンターでは、各種証明書等を提示するだけで、あっさりとチェックインできました。いろいろ面倒なチェックがあるかと思い、早めに空港に行ったので、ちょっと拍子抜けでしたが、おかげでラウンジでのんびりできました。
残念だったのは、まだこの日は東京は蔓延防止解除前だったので、アルコールの提供が20時までだったことです。
仕方ないので緑茶を飲みました。
ちなみにラウンジはガラガラでした。
免税店も閉まり、搭乗客もまばらで、空港は閑散としていました。
機内は、思ったよりも満席に近く、とことどころ空席がある程度でした。
とはいえ、さすがに日本人はほとんどいませんでした。ほとんどが外国人に見えました。さすがに日本人は、この時期にはロサンゼルスに行こうとは思わないようです。
到着日(3/18)
深夜便だったので、LAX到着は夕方でした。ロスは数日前に夏時期になったばかりで、日没が19時ごろなので、夕方とはいえまだまだ真昼間です。
空席までは主人が車で迎えに来てくれたので、ここから先は安心です。
ひとまずスーパーへ行って、アメリカ産のステーキ肉を購入し、家で食べる事にしました。
アメリカのスーパーはスケールが違います。広々していて、密になる心配もありません。
ほとんどマスクをしている人はいません。でも私はもちろんマスクです!
2日目(3/19)
主人が住んでいるのはTorranceという日本人人口がめちゃくちゃ多い地域です。
3回建てのコンドミニアムに住んでいます。
中庭にはプールがあったり、BBQができるスペースがあったりしますが、まだちょっと寒いので、誰も利用していませんでした。
道路の向かい側は巨大な公園なので、閑静な所です。
ところが、週に2回、木曜日と土曜日だけ、この辺りはとても賑やかになります。Farmer's Market が開かれるのです。
公園の駐車場いっぱいにお店が出て、新鮮な野菜や果物が販売されます。ちょっとしたフード屋台も出ています。
このマーケットは結構有名みたいで、いつも道が渋滞するほど人が集まるらしいです。
新鮮さではピカイチですが、お値段はスーパーに比べると高いので、私は見て回っただけで何も買いませんでした。
マーケットの後は、車で近所のビーチに行ってみました。Torranceは海沿いの街で、車で10分も行けば素敵なビーチが広がっています。この日はRedondo Beachに行きました。お洒落なレストランがあったり、釣りをしている人がいたり…。でもとにかく風が強くてめちゃくちゃ寒くて、軽装で行ってしまった私はもはや「寒い」以外の事が考えられなくなり、逃げるように車に帰りました。
もう少し暖かくなったら、きっと楽しそうでした。
ちなみにこれに懲りた私は、これ以降、どこに行くにもパーカーとライトダウンを必ず持っていく事にしました。
そして、このビーチの近くにはあの有名な映画「La La Land」の中で出てくるジャズライブハウス「the Lighthouse Cafe」があります。
もっと観光客がいっぱい来ているのかと思いきや、誰もいないし、駐車場の前にひっそりと佇んでいて、それと知らなかったら通り過ぎてしまう感じでした。
この後は更に海岸線を北上し、Santa Monicaへ行ってみました。Santa Monicaと聞いただけで、なんともオシャレな響きでテンション上がる感じですが、普通に素敵な海辺の街という感じでした。もう少し暑ければ、埠頭の方まで行って海を満喫するといいのでしょう。
海を見て、ダウンタウンへ行ってチャイニーズレストランでランチを食べました。
ちなみに今回の旅行では、レストラン探しにはyelp というアプリが活躍してくれました。
友達が出国前に教えてくれたのですが、入れておいて良かったです。
3日目(3/20)
朝から気合を入れて、HollywoodとBeverly Hillsへ観光に出発!やっぱりロスと言ったらここでしょう!
まずはグリフィス天文台(Griffith Observatory)へ!朝早かったので天文台自体はまだオープンしていなかったのですが、私の目的は天文台というより、そこからの眺めだったので、十分に目的を達することができました。
こうしてみると、ロスの街って意外とこじんまりしてます。
向かいの山肌にHollywoodのサインが見えます。こうしてみるととても遠く感じますが、実際はもっと近くに見えました。
天文台を出て、いよいよHollywoodへ出発!
ところが、何故かHollywood市内に入る道がどこも通行止でバリケードが張られているのです。私達同様、多くの車が同じ様に通行止にぶち当たっては突き当たりで方向変換していました。撮影にしてはあまりに範囲が広すぎると思いネット検索すると、なんとその日はロサンゼルスマラソンの日のようで、ほぼ一日中通行止のようでした。
仕方ないので家の方へ帰ろうと思うのですが、ハイウェイに通じる道路も通行止で、とてつもなく遠回りして家の方に戻りました。
家の近所に戻ると、ちょうど昼時だったので、全米最大級と言われる巨大ショッピングモールDel Amo Fashion Centerに行って、ランチにしました。
チリドックとコーラは、豪快でアメリカンな感じが堪能できました。
まあ味も普通に美味しいです。
ところが!この時に気を抜いて、氷の入ったコーラを飲んでしまったために、この後、一晩中水当たりでお腹が痛くて苦しむことになるのでした。晩御飯もほとんど食べられず、明け方まで苦しみました。
というわけでこれ以降は飲み物を頼むときは「No ice 」と言うのを忘れない様にしました。
4日目(3/21)
前日の水当たりですっかり体力を失ってしまい、今日は一日小休止。
お土産を買いに行ったり、近所を散歩したりと現地人の様なのんびりライフを送りました。
我が家のベランダのヤシの木に登るリス。こんなリスが中庭や公園などどこにでもいます。
我が家の前の公園。すごく広い。
ここのリスは人馴れしていて、歩いているとリスの方からこっちに走り寄ってきて、可愛いポーズで食べ物を欲しがります。
散歩しながら落花生をあげている人が結構いたので、落花生が欲しいのでしょう。
藤棚には綺麗な藤の花が咲いていました。日本と変わらない風景。
5日目(3/22)
今回の旅行のスペシャルイベント、ジョシュアツリー国立公園(Joshua Tree National Park)へ行ってきました。この国立公園へロスの東220km辺りにある面積3,196平方キロメートル、東京都の約1.5倍もの広さの国立公園です。我が家から車で2時間以上かかり、国立公園内を車で回るだけでも1時間以上かかります。もちろん途中途中で車を停めてトレッキングするので、半日仕事となります。
入る時にゲートで車1台当たり30ドルの入場料を払いますが、7日間有効だそうです。公園内にはキャンプ場がたくさんあるので、そこで寝泊まりしながら何日もかけて堪能すれば、30ドルは破格だと思います。
ちなみにこのジョシュアツリーというのは、この地域で見られる木の名前です。ヘンテコな木ですが、砂漠地帯のこの地域では、こんな植物しか生きていくないのでしょう。
いろいろなスポットで車を降りて散策するのですが、とにかく岩ばっかりです。
これは骸骨岩💀。確かに骸骨に見えます。
岩場のトレッキングは結構大変で、体力も必要です。あまり歳を取らないうちに行っておいて良かったです。
観光客はいるにはいましたが、何せ巨大な大自然の国立公園ですので、全く密にはならず(笑笑)安心でした。
国立公園を出ると、次はパームスプリングス(Parm Springs )の街へ向かいました。
国立公園の周りは風が強いので、物凄い数の風力発電の風車が回っていました。壮観です!
パームスプリングスではまずパームスプリングス・エリアル・トラムウェイ(Palm Springs Aerial Tramway)というロープウェイに乗って標高2595mのサンジェシント山の頂上へ向かいました。1800mの高度を10分で登るのですが、このロープウェイは床が360度回転する回転ロープウェイで、搭乗者は全員窓際のガラス窓に向かって立って乗ります。床が回って自然に360度の景色が楽しめます。リフトの支柱が4本くらいあって、その支柱を通過するときにロープウェイがちょっと揺れるのですが、それを乗客全員でワーワー騒いで喜ぶというイベント付きです。
山頂に着くと見晴らしの良い所があり、そこから景色を見渡す事もできるし、トレッキングする事もできます。でも山頂はあまりに寒いし、ジョシュアツリーでトレッキングしまくって疲れていたので、私は景色を眺めてすぐに下山しました。
下山してからパームスプリングスのダウンタウンに行ってみました。
ミュージアムの前にマリリンモンローの像があるというので行ってみると、想像を超える大きさのマリリンが待っていました。
後ろ姿は凄いです!パンツ丸見え…笑笑
それから近くのタイ料理屋でようやく遅い遅いお昼ご飯にありつきました。もうほとんど夕方でした。
パームスプリングスはかなり遠いので、ここからまた2時間以上かけて家に帰る事になります。
パームスプリングスは、私の主人の住んでいるTorranceとは地図上で東西がまるで真横の位置関係なので、早朝に家を出た時は朝日に向かってハイウェイを走り、帰りは夕日に向かって走らなければならず、逆光で何も見えず、本当に恐怖でした。
6日目(3/23)
いよいよ前回のリベンジという事で、Hollywoodに行きました。もうマラソン大会は流石に終わっているでしょう。笑笑
今回は順調にハリウッド市内に入り込むことができたのですが、街の中が何だか変なのです。
チャイニーズシアターなどのある目抜き通りのハリウッド大通りの脇で何か工事をしているのです。ドルビーシアターのあるビルの駐車場に車を停めたのですが、ドルビーシアター入口付近の床も全てビニールシートで覆われています。
そう!この数日後、ここでアカデミー賞の発表があり、準備が着々と進められていたのです。
どこかのテレビ局のレポーターらしきお姉さんが準備の様子を伝えていました。
私が無意識に歩いていたビニールシートの下には、あのレッドカーペットが敷かれていたのです!私はスター達の歩く栄誉あるレッドカーペットの上を歩いていたのです。
貴重な現場に遭遇できてラッキーでした!
私は映画に詳しいわけではないので、ハリウッドと言ったらやっぱり映画スタジオだろうと思い、本当はパラマウント映画のスタジオツアーに参加しようと思っていたのですが、残念なことに、コロナのせいで中止になっていました。
予めネットで調べていたので無駄足を踏まずに済みました。
でも残念!
仕方ないので、ガイドブックを見て有名どころを攻めることにしました。
まずはチャイニーズシアターです。ここはもちろんシアターなのですが、有名なのはシアターの入口前の敷石なんです。
スター達の手形やサインがあるのです。
みんな下を向いて、お気に入りのスターの名前を探しています。
これはマイケルジャクソン。
ドナルドダックなんていうのも!
これはマリリンモンロー。足型がピンヒールというのが素敵❣️
このチャイニーズシアターの前のハリウッド大通りの歩道部分には5kmくらいにわたってハリウッド・ウォーク・オブ・フェイム(Hollywood Walk of Fame)といって、ハリウッドで活躍したスター達の名前が星型に書かれて歩道に埋め込まれています。
ひとしきり歩き回った後は、ドルビーシアターのビルの1階にあるHard Rock Cafeでランチにしました。
カフェはとても広々していたし、入場時にはワクチン接種証明を提示させられるので、安心して食事を楽しめました。
カフェのエントランスの外側にはハードロックカフェのお土産売り場があって、Tシャツなどはどれもオシャレで素敵でした。思わず家族みんなの分のTシャツを買ってしまいました。
食事の後は、ビバリーヒルズへ向かいました。何があるというわけでもなく、豪邸が立ち並ぶ地域というだけなのですが、やっぱり街がとてもオシャレでした。
住宅街の近くにはロデオドライブというショッピングストリートがあるのですが、これがまたオシャレ!高級なブランドばかりが軒を連ねているので、私は店には入りませんでしたが、どの店も、入口には凄いマッチョな黒人さんがドアマンとガードマンを兼ねて立っていました。
7日目(3/24)
この日は朝からまたPCRテストを受けに行きました。
場所は、主人がロスに赴任してきた時に2週間も隔離されていたホテルで、国外へ行く人向けのPCRをやってくれるという事で、事前予約していたのです。
受付に行くと、PCRキットを渡されて、すぐ脇のロビーで唾液を集めて、受付に提出するという簡単なものでした。
ちなみに結果はその日の夜には出て、もちろんめでたく陰性でした。
ちなみにPCRの陰性証明以外にも、「My SOS」というアプリをインストールして、事前に必要事項を入力して承認申請する必要があります。
PCRの後は、南へ車を走らせ、パロスベルデス(Palos Verdes)の南の絶壁に位置する公共施設ポイント・ビンセント(Point Vicente Interpretive Center)へ行ってみました。
ガイドブックにはあまり載っていないのですが、Torranceからだと車で30分くらいで行けます。
灯台があると思って行ったのですが、見つけられませんでした。なくなってしまったのか…?
ここは広い公園があって、崖の方へ降りると運が良ければ遠くにクジラが見えるらしいのですが、私が行った時は、海面に雲海が広がっていて、見えるのは雲ばかり…
でも、ここは南西端なので、サンセットが見られるのではないかということで、一旦家に帰って、夜サンセットの頃に合わせてもう一度行くことにしました。
この日のランチは近所のショッピングモールで買ったシナボンとアメリカ風味のカップ麺を家のベランダでのんびり食べました。
空も真っ青で、空気も乾いてサラッとしていて、ベランダライフは最高!
そして、夜。
いくらなんでも夜になれば雲海も晴れていると信じて、サンセットの時間に合わせて朝と同じ場所へ向かいました。ちなみにこの日の日の入りは19:08。
ところが…
雲海は相変わらず朝と変わらず、太陽は海ではなく、雲海へと沈んでいきました…残念!
でも明日はもう出国なので、これがラストチャンスでした。
8日目(3/25)
いよいよ最終日。
今夜の0:55発の深夜便で帰るので、数字の上では最終日ではないのですが、実際は、夕食後には空港に向かわなければならないので、最終日です。
最終日はゆったり過ごそうという事で、荷造りしたり、スーパーへ行ったり、近所の散策をしたりしました。
日系スーパーに行ったら、花王のエッセンシャルシャンプーがなぜかめちゃくちゃ安く売られてました。日本より安いって…どういうこと?
そんなわけで最終日の夜にはロサンゼルス国際空港LAXに向かいました。
道は空いているだろうとたかを括っていたら、空港に入るところで大渋滞してしまいました。もうロスでは飛行機で移動する人がいっぱいいるということでしょうか。
確かに今回の旅行では、アメリカの生活があまりにコロナ前のような状態に戻っていてびっくりしました。
感染者数は日本より少ないわけではないけれど、もうマスクは特別な場所以外では必須ではないし、本当に快適でした。
ちょっと離陸まで時間があったので、ラウンジで一休みしました。
でもLAXのラウンジはあまり快適ではなく、あまり席は清潔ではないし、トイレも便器に汚物は溜まったままだったり…。ちょっと残念でした。やはり日本人は特別に綺麗好きだという事でしょうか?
でも深夜遅くまでシャンパンが飲めたのは良かったです。
帰りのフライトは、そこそこ混んでいましたが、幸い隣の席は空席だったので、快適でした。フライト時間は、行きは10時間なのに帰りは風向きの影響か、12時間もかかります。寝ても映画を見ても、簡単に時間は過ぎません。
そしてフライト中に日付変更線を越えるので、3/26というものが消えてしまい、3/27早朝4:45に羽田空港に到着しました。
到着日(3/27)
飛行機は予定通り到着したのですが、コロナ禍という事で、混雑を避けるためか、飛行機を降りるのに45分もかかりました。まず、トランジットの人が先に降り、ファーストやビジネスの人が降り、前方座席の人が降り、私が降りたのは最後の最後でした。
降りてからもまた大変!矢印に沿ってたくさんのチェックポイントを進んでいきます。
事前にスマホに「My SOS」というアプリを入れておき、細かな内容を登録しておき、その内容が承認されている人は、ここでファストレーンへ進めます。承認前は画面が赤で、手続中だと黄色、承認後は緑になりますので、スマホの緑の画面を示せばファストレーンに行けるのです。この時点で緑ではない人は、そこでアプリを入れるところから指導されます。
スマホを持っていない人は、ここで貸出を申請して、スマホをレンタルする必要があります。
恐らくお年寄りには非常に困難だと思います。
ファストレーンを進むと、各チェックポイントで、提出物を出したり、新しく用紙をもらったり、とにかく言われるままにやっていきます。
あまりにもチェックポイントが多すぎて、一体何をやったのか、もう覚えていません。笑笑
そして途中にはPCRテストを受ける場所があり、漏斗と容器を渡されて、選挙の時の投票ブースのような一人一人分けられたブースで唾液を採取します。ブースにレモンの写真が貼ってあったのはちょっと笑えました。
ブースには唾液の量をチェックするお姉さんがいて、「あとちょっとです。!頑張ってください」などと言いながらチェックしてくれます。
テストの結果が出るまでには若干時間がかかるので、広い待合所で電光掲示板に自分の番号が表示されるのをしばらく待ちます。
番号が出たら、カウンターへ行くと、めでたく陰性証明をもらえて、晴れて空港を脱出できます。
私は4:45着という早朝便で到着したのに、飛行機到着から飛行場を出るまで、2時間かかりました。もっと混んだ時間だったら、何時間かかるのか…?
日本に帰ってくると、突然、コロナ禍を思い出させられました。日本はまだまだコロナ禍ですね。また気を引き締めて生活しなければ…!
こうしてブログを書きながら写真を見ていると、どの写真も空がビックリするほど真っ青で美しいことに気付きました。
ちなみにどの写真も無加工です。
束の間のバカンス、命の洗濯でした。
2022/4/4
体験記【腹腔鏡下手術による子宮全摘】
私は元気と健康だけには自信のある56歳、二児の母です。
この度、事もあろうに、この私が子宮卵巣全摘手術を受ける事になってしまいました。
ショックですが、事に経緯を記録しておきたくて、そしてそれで同じような人の助けになればと思い、ブログにする事にしました。
ちなみに、今回のテーマは病院ということで、写真を載せることができず、載せている写真は本文とは全く関係ないものです。
〜手術に至る経緯〜
それは2年半くらい前のこと、年に一度の健康診断で、子宮頚がん検査の結果、「要精密検査」が出てしまったのです。
今でもその、おどろおどろしい赤い文字は忘れられません。
その時は、「中度異形成」というランクでした。慌ててネットなどで調べてみると、異形成にはランクがあり、軽度、中度、高度となって行き、その後は癌の領域になっていくようでした。
慌てて近くの癌を専門にしている大病院の予約を入れ、再検査をしました。
すると結果は「軽度異形成」。
医師の話によると、これは、どんどん進行する場合もあれば、自然に消失する場合もあるそうで、軽度異形成であれば、半年に一度の検診さえしていれば、とりあえずは大丈夫との事でした。
不安は完全には消えないものの、その時はそれで納得しました。
それから、ずっと半年に一度の検査をしてきたのですが、この一年、「中度」から「高度」の異常が続きました。
医師は、3か月に一度の検査を勧め、更に通常の検査に加えて細胞診と言って細胞を抉り取ってする検査やコルポスコープという拡大鏡検査も行うようになりました。
この細胞診は、麻酔なしで、数ミリ角の細胞を数個、抉り取るので、本当に痛いし、検査後は数日間出血するので、本当に嫌なものです。
そして、ここの所、そういった一連の検査結果が芳しくなく、異形成も中度から高度あたりのレベルになってきました。
更に子宮頚がんの原因の一つとされるHPVも私は陽性だったため、医師は前回の結果が出た時に、治療する事を提案してきたのです。
私もいろいろ調べていたので、ある程度はそういう事も想定していた部分もあり、そういう場合には「円錐切除」と言って子宮頸部入口を円錐形に切除する事も知っていました。
ところが、医師が提案してきたのは、円錐切除ではなく、なんと子宮全摘でした!
これには流石に椅子から落ちそうなほどビックリしました。
理由を聞くと、私のように50歳を過ぎている場合、円錐切除をすると、縫口がどんどん子宮側に入り込んでいき、もし再発した場合、もはや見つけられない場所に再発してしまうのだそうです。
家に帰って調べた結果、確かに私のような年齢では、子宮全摘か経過観察の2択だという事がわかりました。
私は十分納得して、経過観察ではなく、子宮全摘を選択しました。
ここまで綿密に検診を繰り返してきて、これだけ危険信号が出ているのに、更に経過観察をして、より癌に近づけてから処置するというのでは、検診の意味がないと思ったからです。
今だったら、単純子宮全摘で済むけれど、悪化させてからでは、切除範囲も広がる危険があるし、そもそも癌になってからでは、放射線や抗がん剤までやる事になってしまうでしょう。
更に私に追い討ちをかけたのは、今のコロナ禍でした。
結局今はどこにも遊びに行くこともできないし、毎日会社に出勤する必要すらないのだから、今のうちに完治させてしまえば、コロナが収束した時には、再び元気全開で活動を再開できると思ったのです。
というわけで、子宮全摘は決定したのですが、医師は「卵巣も全摘しますか?」と聞くのです。
え?卵巣⁉︎
そもそも子宮もまだ癌ではないのに取るのですが、卵巣まで取るとは思っても見ませんでした。
医師に聞いてみると、このようなケースでは、卵巣も一緒に全摘する人の方が多いというのです。
メリットは、将来、卵巣癌にかかるリスクがゼロになるからだそうです。
日本では毎年7500人くらいの人が卵巣癌にかかるそうです。それほど大きな数字ではないかもしれないけど、十分に危険な数字です。
更に、卵巣癌は、子宮頚がんとは異なり、発見しにくい癌で、気づいた時にはステージ3、4になっているらしいのです。
こう聞くと確かに、「ついでに」卵巣も取るというのは、意味のある事に思えます。
デメリットはというと、一番大きいのは「喪失感」だそうです。もう女じゃなくなってしまった…的なやつでしょうか。この点では、私は間違いなく、大丈夫だと言えます。私は自分が女性であるのは、卵巣や子宮の有無とは完全に無関係だと思っているからです。
むしろ私が気になったのは、もう一つのデメリットでした。
女性は歳を取るとどんどん女性ホルモンの分泌が減ってゆきますが、それでも60歳くらいまでは、ほんの微量のホルモンが分泌されているのだそうです。
最近のアメリカの研究では、その微量ホルモンがなくなると、骨粗鬆症になったり、心臓や肺にまで影響が出たりするとも言われています。
私はいろいろな人に聞いたり、調べたりしたのですが、私のケースで卵巣を取るか取らないかは、意見が完全に二分されている事がわかりました。
もうこれは、自分で決めるしかありません。
私は、自分の性格を考えると、取らないで卵巣癌になる方が、より後悔すると思い、この際、微量ホルモンは無視して、卵巣も全摘する事にしたのでした。
私の選択した術式は、「ロボット支援腹腔鏡下子宮卵巣全摘手術」です。
開腹か腹腔鏡かと言われれば、私は断然腹腔鏡を選びます。なぜなら、傷が小さい分、社会復帰が早いからです。
こちらの病院では、お腹に約8cm間隔で1cmに満たないような小さな穴を5つ開けて手術を行うそうです。
ロボットか人間か…。
私がロボットを選んだのは、主治医から勧められたからです。実はもともとは人間を選んでいたのです。
そこの病院では、この手術にロボットを使うのは、私で4例目だそうで、5例行うまでは、保険診療として認められないのだそうです。
そんなわけで、病院側としては、何とか5例という関門をクリアしてしまいたいのです。
それを聞いた時、私は思わず、「それって、実験台っていう事ですか?」と聞いてしまいました。
主治医は、「まあそういう考え方もありますが、その代わり、手術には、ロボット専門医が立ち会うので、手術のクオリティとしては、通常よりむしろ高くなる可能性が大です。」と言うのです。
ちなみに、まだ4例目は保険適用外なので、高額になるので、手術費用は全額病院負担になるそうです。
私は、結局、この主治医を信じて、ロボットに命を託す決意をしたのでした。
〜術前検査〜
手術が決まると、早速術前検査です。
血液や尿などの生理検査のほか、呼吸器検査、レントゲン、心電図、心エコー、骨盤MRIなど、盛りだくさん!
骨盤MRIでは、造影剤を点滴しながら撮影するのですが、私は造影剤が合わなかったのか、動悸が10分間くらい止まらず、恐ろしい思いをしました。
それらの検査結果は、どれも良好で、骨盤内には癌らしき病変も発見される事なく、ホッと一安心でした。
そして手術の数日前には、術前PCRテストを受けました。
これは、例の鼻から採取するやつではなく、自宅で唾液を採取して持って行く方式でした。
私は梅干しとレモンを目の前に置いて、シリンジの線まで頑張って唾液を集めました。
これはかなり難しく、10分間以上かかってやっと線に到達しました。
そして蓋を閉めようと思って見ると…
なんともっと下にも線があるではありませんか⁉︎
私は梅干しを見つめながら規定の倍量の4ccもの唾液を集めてしまったのでした!
PCRの結果は幸い陰性で、これでようやく私は、晴れて手術に臨む事ができるようになったのです。
〜入院生活〜
- 7月6日 (手術前日)
前日の朝、私は1人寂しく病院に入りました。
コロナ禍で、どうせ誰も病棟内に入れないので、付き添いがいてもしょうがないからです。
手術前日というのは、意外とたくさんのミッションがあって忙しいのです。
まずは看護婦さんに病棟を案内してもらい、部屋に入りました。
私の部屋は、8階で、6人部屋をコロナ禍で4人仕様に変えてあり、広々としていました。
窓際で見晴らしも最高で、内装も新調したばかりのようで、大変清潔でした。
それから、売店に行き、パジャマのレンタル契約をして来ました。一日200円程度で借りられて、リーゾナブルです。
私はお腹を切るので、ウエスト部分にゴムのないガウンタイプにしました。
部屋でパジャマに着替えると、不思議なもので急に気持ちも患者モードになってきます。
血液検査やら、血圧やら、身長体重などを測ります。
すると最初の食事、昼食です。
具だくさんのうどんでした。
これから数日間、ずっと病院食を食べ続けるわけですが、この病院の食事は、私の抱いていたいわゆる病院食よりも美味しく、豪華でした。
食事が終わると、いきなり看護婦さんが、コップに入った下剤を持ってきました。
せっかく今食べたのに、もう下剤⁉︎
しかも、まだ夕食も食べるのに、もう下剤⁉︎
下剤は、10倍濃縮ポカリスエットのような味で、150ccくらいありました。
そして次は、実際に手術室の前まで行き、麻酔科の先生とオペナースさんから、手術と麻酔の話を聞きました。
今回は全身麻酔なのですが、危険性についての説明を聞くと、同意書にサインしたくなくなります。
本当にそれくらい危険を秘めているのだと思うと、本当に怖くなりました。
オペナースさんは、手術の流れを説明してくれましたが、この手術では、口から酸素チューブを挿管しながら長時間手術するので、ほぼ100%喉が痛くなり一時的に声が出なくなるそうです。
また、挿管により前歯の損傷も起こる可能性があるそうです。
手術は他臓器の影響を無くすために、頭を下げて行うので、肩への負担がかかるそうです。
お腹の中を見やすくする為に、腹腔内はガスでパンパンに満たすとも言っていました。
更に、切除した子宮などは、膣から取り出す為、脚も開脚姿勢になるそうです。
その上からロボットのダビンチ君がのしかかっているわけです。
これら全て総合すると、私の脳裏には、物凄く恐ろしい地獄絵図が完成してしまいました。
こんなの本当に明日やるのか、私?
同意書にサインして、気を取り直して部屋に戻り、術前最後のシャワーを浴びました。
そして夕方。
ついに来ました、第一波が…!
下剤が効いてきたのです。
良かった良かったと思ったのも束の間、ここから私の悪夢の一夜が始まるのでした。
結局、朝までに私は、なんと15回もトイレ通いをし、出るものは水のみ…という状態になっても、まだ尚トイレに行き続けました。
おかげで、術前の恐怖や緊張を感じる余裕もなく済んだ…とも言えます。
- 7月7日 (手術当日)
そして寝不足で迎えた朝、看護婦さんは私が一晩中下痢で苦しんだと知っているにも関わらず、「じゃあ、ダメ押しで浣腸しましょうね!」と言って、更に浣腸をしてくれました。
もうもはや、どうにでもなれ状態の私…。
💩をしたら、チェックするので、流さずにナースコールで呼んで見せるようにと言われました。
もちろん一発合格!
もともとお腹には何も入ってないのだから。
そして、部屋で緑色の手術着に着替えると、付き添いの娘が病院に到着したので、看護婦さんと娘と3人で地下の手術室に歩いて向かいました。
ドラマなんかでは、必ずベッドに寝て、家族に手を握られながら、手術室まで押されていくのですが、私の場合、徒歩でスタスタ歩いて手術室に入って行ったのでした。
手術室のドアが開くと、私を待っていたのは、ダビンチ君でした!
残念ながら、その肝心なアーム部分はカバーで保護されていて、見ることはできませんでしたが、十分迫力がありました。
アイツを、私の主治医は「操縦する」と言っていたなあ…。
女医さんなのに、なんかめちゃくちゃカッコいいなと思いました。
部屋の中央の無影灯の下には、ベッドが鎮座しており、オペナースさんに、そこに寝るように言われました。
そして、瞬く間に、私の身体にはいろいろな機器が付いていきました。
最後に、酸素マスクがつけられて、今から麻酔薬を入れると言われたところまでが、私の術前の記憶の最後です。
次に意識が戻った時、朦朧とする中で、酸素の挿管チューブが抜かれたのがわかりました。
とにかくそれが最初の記憶です。そして私は無意識の中で時計が12:43ごろを指しているのを見ました。
それで、ああ、終わったんだ!と思ったのです。
手術時間は、もともと4、5時間と言われていたので、4時間弱だったと言うことは、まあまあ順調だったということでしょう。
そしてその瞬間、思ったのは、「とにかく下腹部が痛い!」という事でした。
人の話によると、麻酔が覚めた瞬間は、まだ痛みは感じず、麻酔がどんどん切れる過程で痛みを感じ始める…ということだったのですが、私の場合は全然違って、覚めた瞬間から地獄が始まりました。
娘が迎えに来ていたようですが、何となくしか記憶になく、とにかくお腹が痛いから、早く痛み止めの点滴を始めて欲しいということしか頭にありませんでした。
でも、声を上げたくても、挿管チューブの後遺症で、喉がガラガラで声があまり出ないのです。
とりあえず、小さな声で、「お腹 痛い」と言い続けてました。
すぐにベッドは部屋に運ばれ、この後6時間くらい、地獄の淵を彷徨うことになりました。
この最初の6時間は、痛み止めの点滴が全く効かず、かと言って、身体を丸めて痛みに耐えることもできず、どうする事も出来なかったのです。
痛いのに、ただ上を向いてお行儀良く寝るしかできないのです。
脚さえも、血栓を防ぐ為に、空気圧マッサージャーに繋がれているのです。
子宮を取った部分の激痛以外に、もちろんお腹の5つの傷も痛いわけで、横を向く事もできません。
今となっては、自分がどうやって乗り切ったのか、思い出せませんが、とにかく6時間くらい経つと、突然痛み止めが効果を発揮し始め、急激に痛みが引いていきました。
もちろん痛くなくなったわけではありませんが、我慢できるレベルの痛みになったのです。
そして、私はようやく、少し眠りました。
- 7月8日 (手術の翌日)
目覚めると、ちょっと楽になった自分がいました。
ほんの半日前は、地獄の淵にいたのに、気づくともう地獄は見えませんでした。
看護婦さんが、朝食を持ってきてくれました。
納豆と梅干しと和物と味噌汁とご飯でした。
いくらなんでも、さすがに昨日から飲まず食わずの私は、味噌汁を少し飲んで、梅干しでご飯を3口食べるのがやっとでした。
でも、和食でまだ良かったなと思いました。
食事が終わると、看護婦さんが、身体を拭いてくれました。
驚いたのは、下半身にはお湯をかけながら、洗ってくれた事です!凄い…
そして、昨日一日中着ていた手術着から、パジャマに着替えさせてくれました。
顔に塗る、美容液と化粧水まで取ってくれたので、いつものようにお顔のお手入れまでできました。
こうなると急に、健常者になった気分になります。
そこですかさず、看護婦さんが言いました。
「じゃあ歩く練習してみましょう!」
これは本当に、マジか?という感じでした。
だって半日前は地獄の淵だったのに…!
とりあえず、座ってみましょう!
とりあえず、座ったまま、脚をバタバタさせてみましょう!
とりあえず、立ってみましょう!
とりあえず、ちょっと歩いてみましょう!
とりあえず、病棟を1周してみましょう!
とりあえず、もう一周してみましょう!
看護婦さんの巧みな誘導により、意外にも、私はあっさりと、そしてスタスタと、病棟2周の最初のミッションをクリアしたのでした。
これには自分でもビックリしました。
看護婦さんも、私があまりにスタスタ歩くので、ビックリしていて、「体重が軽いということは、やっぱり動けるようになるのが早いですね!太っていると、こうはいきませんよ」と言っていました。
そして、このミッションをクリアした事で、大きなご褒美がありました。
心電図、オキシメーター、マッサージャー、導尿用尿管が、続々と外れたのです!
これは、もう自分で何でも歩いてやれよ!という意味です。
実は、私にとって、歩く事は、全然大変な事ではありませんでした。
もちろん、歩き出す前は、いきなりそんな事絶対できないと思ったのですが、実は、歩くのは、寝ているよりも、お腹が落ち着く感じがしたのです。
こうして、意外とあっさり、私は第一のミッションをクリアしたのでした。
人間の回復力って本当に凄いと実感しました。
- 7月9日
この日のミッションは2つ!
シャワーと💩です。
お腹の傷にはテープが貼ってあるので、そのままシャワーを浴びることができるのです。
ふらふらする事もなく、快適にシャワーを浴びてミッションクリア!
そして💩は、腸を動かす為に、病棟を2周ほど散歩すると、自然にやってきました。
その後も、更に2回もミッションをしました。
こんな風に書くと、💩は簡単なミッションに聞こえますが、実はこの💩ミッションは、簡単そうに見えて難しいのです。
というのも、お腹を切っているので、腹圧をかけるのは厳禁なのです。
排便というのは、どうしても腹圧をかけてしまうので、多くの人は、排便できないのです。
実際、同室になった人達は全員、マグリットという、便の水分を増やして出しやすくする薬を飲んでいました。
優等生の私は、ここでも、薬に頼る事なく、ミッションクリアしたのでした。
- 7月10日 (退院前日)
今日のミッションは、内診と、お腹の傷のテープ貼り替えと、退院指導でした。
内診は、初めて膣側からチェックをされるので、ドキドキでした。
ちゃんとくっついているんだろうか?と不安になります。
結果は、全て問題なしで、傷は綺麗についているとのこと。
縫い目に触れられても、全く痛みはありませんでした。
本当にホッと一安心です。
そう言えば私が凄いと思うのは、手術後、どこからも一滴も出血していないことです!
もちろん手術中は出血したでしょうけれど、それも輸血するようなレベルではありません。
一応生理用ナプキンを付けてはいますが、一滴も出血しません。
もちろんお腹の傷からも出血はゼロです。
本当に凄いと思いませんか?
私は、外科手術と言ったら、もっと血みどろ、血まみれのものを想像していたので、本当に意外でした。
やはりそれだけ医療レベルが高いという事なのでしょう。
そしてもう一つのミッション、お腹の傷のテープですが、これは個人的には、かなり恐怖のミッションでした。
私は術前からずっと、お臍に穴を開ける事に、言葉にできない恐怖を感じていました。
でも腹腔鏡手術では、お臍はカメラを挿入する穴なのです!
えええ?子供の頃、お臍は大事だから、無闇にいじっちゃいけないって習わなかったっけ⁉︎
でも私の主治医は「お臍も普通の場所ですよ」と言うのです…。
私は、臍の傷が開いて内臓がニョロニョロ飛び出してくるシーンなどを、いろいろ勝手に想像してしまい、お臍の傷を見ることができなかったのです!
でも、このミッションでは、先生は事もなげに、5つの傷のテープを剥がして、消毒し、また新しいテープを貼ってくれました。
私はついに、透明テープの下に透けて見える臍と対面する事になったのでした。
結果…想像していたようなホラーな画像ではなく、まあ普通に切った跡というだけでした。
ああ、良かった良かった!
これで私の退院前検査は、途中で行われた血液検査も含めて全て終了し、全て問題なしとなり、主治医から、明日退院できると言われました。
これで残すところ退院指導のみとなったわけですが、全然その気配がないのです。退院前に渡される薬もまだ渡されていません。
不思議に思った私が、看護婦さんに聞いてみると、どうやら看護婦さんが共有しているPCの中の私のミッション表では、退院が明日ではなく、明後日になっていたのです。
だから、看護婦さんは、明日それらのミッションをするつもりでいたようでした。
どうやら、私の主治医は、通常よりも1日早く退院させようとしていたのですね。
というわけで、看護婦さんは慌てて退院指導をして、次の外来までの薬をガバッと渡してくれました。
余談ですが、実はこの前日くらいまで、ずっと、言葉にできないような違和感がありました。
食事があまり食べられないのです。
お腹は空くのに、食べると胃が張ってゲップがしたくなるのです。
ところが、ゲップが上手くできないのです。
ずっと何がおかしいのか、考えていたのですが、どうやら横隔膜あたりが筋肉痛のように痛いのです。
主治医に話すと、手術中長い間、頭を下にしていたので、横隔膜あたりが、下から内臓で押され続けたせいではないかと言っていました。
他にも、どうも体内に空気が残っているような感じがして、違和感があったです。
それが、今日はグッと改善されてきました。
横隔膜の筋肉痛も、ゲップが出せるレベルに軽減したし、体内のガスの感覚も、急になくなりました。
そうなると急に元気が出てきました。
退院前日になってようやく、ブログを書こうとか、ドラマを見ようとか、友達とLINEでいっぱい話したいとか、そんな欲求が復活したのです。
私はある意味、これが一番大事なミッションだたような気がしました。
肉体の回復に伴い、ようやく精神も回復してきたのです。
人間はちょっとでも体調に違和感があるうちは、他のことに集中できないのだと思いました。
- 7月11日 (退院の日)
退院の朝は、先に会計に行きお金を払ってきました。
約束通り、手術費麻酔費は全額無料だったので、私が払ったのは数万円でした。
最新のロボット手術を無料でできたなんて、私は本当にラッキーでした。
そして部屋に戻ると、しばらくして、息子が迎えに来てくれました。
〜入院・手術を振り返って〜
こうして家のベッドに横たわってみると、いかに自分の家が落ち着くか、よくわかります。
ベッドの機能はパラマウントベッドには劣るものの、やっぱり自分のベッドは落ち着きます。
留守中、全て子供たち2人に任せておいたので、家の中は荒れ気味で、家事をすぐやりたい気持ちになりましたが、身体の事を考えて、全て気にしない事にしました。
とりあえず今週だけは、何もしないでダラダラ暮らす事を宣言しました。
子供たちは、2人でそれなりに役割分担して、私の面倒を見てくれるようです。
今日のお昼は息子が、夜は娘が食事を上げ膳据え膳で食べさせてくれました。
本当にありがたいことです。
友達からも早速、電話が来たり、お祝いのお菓子も送られて来ました。
今回入院して強く思うのは、そうやって支えてくれた人達への感謝です。
入院中もたくさんの友達が励ましてくれました。コロナ禍で、誰もお見舞いに来ることのできない中で、そういったメッセージによる励ましは、私の唯一の心の支えでした。
仏教徒の友達は仏教、キリスト教徒の友達はキリスト教の祈りを教えてくれて、友達自身も一生懸命に手術の成功を祈ってくれました。
私が優等生患者として退院できたのも、そういうみんなのパワーの結晶なのでしょう。
本当に感謝しかありません。
操縦(執刀)してくださった主治医の先生、並びにいつも笑顔で親切に接してくださった看護婦の皆さんにも、心からお礼が言いたいです。
ありがとうございました!
2021/7/11
体験記 コロナ感染者と暮らした6日間!
旅行ブログのはずが…
このブログ、もともとは旅行ブログだったのですが、コロナのせいで旅行なんてもっての外みたいな世の中になってしまったので、すっかりご無沙汰状態になってました。
でも、今日、ふと思いついたんです!今みんなの為になるのはどんな記事か…という事を。
やっぱりコロナをどう予防するか?の一択なんじゃないかと。
幸か不幸か、実は我が家の20代の息子は元感染者で、4ヶ月前に感染し、今は無事に生還してます。そして、私をはじめ、同居の家族(主人、娘、私)は、感染者の息子と丸6日も一緒に暮らしていたのに、全員感染する事なく今日に至っているのです。
というわけで、この体験記「コロナ感染者と暮らした6日間」を皆さんと共有することによって、少しでも誰かの役に立てればと思い、ブログを書くに至りました。
〜もくじ〜
- まさに青天の霹靂!息子の感染
- PCR検査
- 濃厚接触者の家族も全員PCR!
- 息子の隔離
- 隔離施設での生活
- 晴れて生還!
- しぶとい後遺症
- 我が家の感染防止対策
- なぜホテルは逼迫していたのか?
- 感染者と暮らして学んだこと
〜今回のコロナ騒動の流れ〜
1月2日 息子が感染者と飲み会。
1月3日 息子帰宅(昼夜、家族と一緒に食事)。
1月4日 息子が濃厚接触者になる。
1月5日 息子発熱、喉の痛み開始(38℃台)。
1月6日 息子PCR検査。
1月7日 息子陽性確定。家族が濃厚接触者に。
1月9日 家族PCR検査。息子ホテル隔離開始。
1月12日 家族全員陰性確定。
1月16日 息子ホテルから帰宅、隔離期間終了。
1月23日 家族自粛生活終了。
まさに青天の霹靂!息子の感染
それは1月4日のことでした。お昼にスパゲティを作っていると、息子がようやく起き出してきて、いきなり、「さっき、昨日の朝まで一緒に飲んでた友達から電話があって、たった今、コロナ陽性が確定したって」と言うのです!
一瞬、我が耳を疑いましたが、息子は、前の前の晩に友達3人と友達の家で新年会と称した家飲みをして、昨日の朝、帰宅したのですが、どうやら、そのメンバーの1人A君が感染していたということでした。
A君は、保健所から陽性の判定を受け取って、真っ先に息子に連絡をくれたのです。
A君は「これからいろいろ事情聴取があるけど、もしK君(息子)が都合が悪いなら、保健所には名前を出すのをやめようか?」と言ってきたそうです。
確かに、ここで名前を出されると、少なくとも濃厚接触者になってしまうので、仕事にも行けなくなるわけです。
私は咄嗟に、いろいろメリットとデメリットを考えましたが、やはり、正直に名前を出してもらって、さっさとPCR検査をしてもらうのが最善なのではないかと思いました。
当時は、PCRは簡単には受けさせてもらえなかったのですが、濃厚感染者であれば、優先的に受けられたからです。
息子が白であれ黒であれ、PCRをさっさと受けることは、周りへの感染を予防するという観点から考えると、非常に重要だと思ったのです。
私は息子に、すぐにA君に連絡して、前々日の夜に一緒だったことを正直に保健所に言ってもらうようにと頼みました。
その結果、30分後には保健所から1本目の電話が来て、住所などを聞かれました。そして、住所が文京区だったので、これから先は文京区保健所が担当するので、文京区保健所からの指示を待つようにと言われました。
そして、その日の夕方には、文京区保健所から電話が来て、症状の有無や、家族構成、喫煙の有無など、細かい事をいろいろ聞かれたようでした。
幸い、息子はその時点では無症状だったので、2日後に決められた場所で、PCRを受けるようにという指示だけを貰いました。
PCR検査
そして2日後、息子はすでに37℃を超える熱がある中で、徒歩30分もかかる検査会場へとぼとぼと向かい、PCR検査を受けて、帰ってきました。
本当に可哀想ですが、公共の交通機関は利用するなと言うので、自家用車を持たない我が家は、もはや徒歩しか術がないのです。本当に気の毒でした。あと少し熱が高かったら、行けなかったなあと思います。
そして翌日の夜、保健所から電話で陽性を告げられました。その時点では既に、38℃を超える熱があったので、もはや聞くまでもない感じでしたが、それでも、コロナ陽性と宣言されると、やっぱりショックでした。
さて、陽性だったらすぐに病院なりホテルなりを手配してもらえるのかと思いきや、それほど甘くはなく、実際にはさらに2日後、ようやく保健所から、「ホテルが決まったので、2時間後に迎えの車が来るので、すぐに準備するように」との連絡が来ました。実に、A君から電話をもらってから既に丸5日の時間が経っていました。
濃厚接触者の家族も全員PCR!
さて、時間は前後しますが、息子の陽性が確定したので、私たち同居家族は濃厚接触者ということで、PCRを受ける事になりました。息子の陽性確定後、すぐに保健所から電話で指示がありました。
検査場所は、息子の時とは違って、さらに遠い病院でした。濃厚接触者ですので、もちろん交通機関は使えないので、片道1時間10分もかけて歩いて行きました。
病院の前に着くと、防護服の看護士さんがいて、私たち家族の他にも10人くらいの人がPCRを受けに来ていました。
皆さん、一見健常者に見えるのですが、PCRを受けに来ているということは、多少なりとも感染が疑われている人たちなのだと思うと、近くに並んでいる事が、恐ろしく感じられました。まあ実際には、私達も既に感染してる可能性があるわけで、お互い様なのですが…。
PCR検査は、病院の外のガレージというかピロティのような開放的な空間で行われていました。防護服の看護士さんと思われる人が、長い棒を鼻の奥に刺すだけです。一瞬で終わりますが、結構痛い!そしてなぜか娘だけは、両方の鼻に刺されました。ちょっと可哀想…
2日後には結果が出て、結局、私達家族は奇跡的にも全員陰性でした!
でも、陰性陽性に関わらず、濃厚接触者である私達家族の自粛生活はここから延々と続くのでした…。
何しろ、私達は、陰性とは言われたものの、まだ感染者と同居中なので、常に感染のリスクを背負い続けているわけです。
だから、息子が隔離されて初めて、14日間の自粛生活のカウントが始まるというわけです。なんと長いことか!つまり、結果的には家族は全員、23日間も自粛生活を余儀なくされたわけでした。
ちなみに、その自粛生活ですが、私を含め多くの人は誤解しているようなのですが、全く家から出てはいけないというわけではありません!
一応、陰性判定をもらっているので、あくまで自粛であって、隔離ではありません。
保健所の人に直接聞いたところ、日常生活に必要な買い物は、さっと済ませても構わないそうです。全てを宅配にしなければならないとかいうわけではありません。
ただ、もちろん、不要不急の外出や、外食、学校、会社などは行ってはいけません。
息子の隔離
さて、話は息子に戻ります。隔離先のホテルが決まると2時間後くらいにはお迎えが来るので、大急ぎで準備です。
最悪の場合はかなりの長期戦になるかもしれないので、旅行用の大きなトランクに、着替えやら、お菓子やら、インスタント食品やらを、いっぱい詰め込みました。
結果的には、息子の隔離期間は1週間で、その間の食事も十分に与えられていたので、実際には食料はそんなに持っていく必要はなかった感じでしたが。
「お迎えの車が来る」と言われて、私はてっきり、防護服のおじさんが護送車のような車で乗り込んでくるんじゃないかと思っていました。
マンション住まいの身としては、それでは後々肩身が狭すぎるので、お迎え時間の10分前には、息子をマンションの下の物陰に待機させました。
でも、やってきたのはごく普通のワンボックスで、運転手に至っては普通の服装のお姉さんでした。
え?という感じですが、ひとまずこれで誰かに見られていたとしても、彼女と旅行に行った…という言い訳が使えそうで、ほっとしました。
息子の話では、その後もう1人、若い女性が乗ってきて、同じホテルに向かったそうです。彼女も軽症者なので、道中はいろいろ元気に話しかけられたと言っていました。
ちなみにこの時点での息子の病状はというと、傍目から見た感じでは、普通の風邪という感じで、38℃前後の熱と、喉の痛みがある程度でした。
ちなみに、この送迎車の費用は無料でした。家の前から隔離施設まで、なんの心配もなく行けたのは、本当にありがたい事でした。
隔離施設での生活
息子がお世話になったのは、浅草のアパホテルでした。そう言えばニュースで、アパホテルの社長さんが、コロナの隔離施設としてホテルを提供すると言っていたのを思い出しました。
当事者となってみると、それは本当にありがたい事で、あの社長さんのおかげで、息子は無事に隔離されたのだと思うと、感謝以外ありません。今度旅行に行くときはアパホテルを利用したいと、心から思いました。
ここから先は全て息子に聞いた話ですが、ホテルは完全に隔離施設となっていて、他のお客様は完全にシャットアウトで、入口には警備の人がいて、外界との接触はできないようになっていました。
息子が泊まったのはシングルで、ごく普通のビジネスホテルという感じでした。
食事は1日3回のお弁当が無料で提供されました。アレルギーがある人などは特別の配慮があるのかわかりませんが、息子の場合は、決められたメニューで選択の余地はなかったそうです。
食事時間になるとアナウンスがあり、フロアの一角のお弁当ステーションに自分で取りに行きます。電子レンジもあるので、感染者達はみんな、電子レンジでお弁当を温めて部屋に持ち込んで食べます。
お弁当の他にも、簡単なインスタント食品や、飲み物なども自由に取れるようになっていて、意外と充実していたそうです。至れり尽くせりですね。
感染者が自分の部屋から出て良いのは、このお弁当を取りに行く時間だけで、あとは部屋から出ることは許されません。
朝が弱い息子は、朝ごはんタイムに寝坊しては、貴重な3回のうち1回の外出機会を逃していたようです。そうなると、持ち込んだインスタント食品や、前日に弁当ステーションで仕入れておいた食べ物が活躍するわけです。
ホテル隔離中は、朝晩、自分で検溫したり、備え付けのパルスオキシメーターで血中酸素濃度を測定し、アプリに記入します。更に看護士さんから部屋に電話が来て、健康観察も行われます。
これで、熱が下がって3日、且つ発症から10日が経過すれば、めでたく退所できるわけです。
下に隔離施設で渡されたパンフレットを貼っておきます。
息子の場合は、隔離後、意外とすぐに熱が下がったので、問診の結果、1週間後の退院になるだろうと言われていました。
とはいえ、元気だったのかといえば、そういうわけでもなく、隔離後から咳が出始め、苦しかったと言っていました。
ホテルでは治療行為は全く行えないので、咳が出るからと言っても薬は処方されません。
薬がなければ苦しいくらいになったら、もうホテル隔離ではなく、病院隔離ということなのでしょう。
でも、どうしても薬が必要だったら、家族に頼んで買ってきて貰い、ロビーまで届けてもらっても良いと言われたそうですが、息子はそんな事は頼んでこなかったので、私は結局、一度もホテルに物品を届けには行きませんでした。
本当に今が便利な世の中で、隔離中も、息子とはLINEで顔を見て話す事ができ、そういう点ではとても安心でした。
晴れて生還!
息子は予定通り、1週間で無事に退所しました。行きは送迎車でしたが、帰りはもう健常者扱いなので、公共交通機関を使って自力で帰ります。
隔離期間中のホテル宿泊費や弁当代などは、全て無料でした。具合の悪い時に、あんなにボリューミーな物なんて食べられないとか言っている人もいるようですが、私としては本当に感謝しかありません。
必要なのは、帰りの電車代だけでした。
ちなみに、息子が感染した原因となったA君は、一人暮らしだったので、ホテル隔離ではなく自宅隔離だったそうです。自宅隔離になるのか、ホテル隔離になるのか、入院になるのかは、患者の症状や家族構成などを総合的に判断して決められるようです。
しぶとい後遺症
もともと、風邪程度の症状だったので、家に帰ってきた時は、咳が残るものの、ほぼ元気でした。ただ、狭い空間に閉じ込められていたわけなので、体力が落ちていて、疲れやすくなっていたようです。
ところが、だんだんと、いわゆる後遺症がある事がわかってきました。息子の場合は、嗅覚障害として現れました。
甘いとかしょっぱいとかいう味は感じる事ができるのですが、それが何の食べ物なのかがわからないというのです。
味覚は、嗅覚の助けがないとダメなのです!ただ、これまでの経験値があるので、例えばカレーを見ればカレーの味を想像できるので、カレーと認識できるのだそうです。
見たこともない食べ物だったら、多分どんな味か全くわからないだろうと言っていました。
これは、嗅覚を失った事がある人にしかわからない感覚で、私自身も、正直言って、よく理解できません。
このブログを書いている時点で、感染からちょうど4ヶ月が経ったわけですが、最近になってようやく、嗅覚が戻ってきたようだと言っています。コロナ、恐るべしですね。
我が家の感染防止対策
さて、ここまでは、息子の発症から回復への経緯を書いてきましたが、本当に書きたかったのは、ここから先の部分です。
私たち同居の家族3人がいかにして感染を免れたかです。
私達は今、周りにはほぼ感染者はいなくても、街を歩くだけでもマスクをし、レジでも距離を取って並んだりしています。
みんな、それだけ恐怖を感じているわけです。
だったら、同じ家の中に感染者がいる事がわかっているのに、一緒に生活するということが、どれほど恐怖で、どれほど危険か、想像してみてください。
我が家の場合、息子が感染者と接触してから、その事がわかるまでが丸一日半と、非常に迅速でした。その間に息子と食事を共にしたのは、飲み会から朝帰りした日の昼ごはんと晩御飯の2回でした。次の日の昼に、昼ごはんを作っている最中に、感染者と接触した事が発覚したので、その日の昼ごはんから先は、息子の食事はトレイに乗せて、息子の部屋に運びました。
食べ終わると、息子はトレイを台所まで持って来るので、私はそれを、普通に台所用洗剤で洗いました。手袋もしませんでした。
というのは、石鹸や洗剤によってウイルスの膜を破壊できるということだったからです。
感染がわかってからすぐに、息子に専用タオルを渡し、トイレや洗面所に行くときは自分のタオルを持って行かせました。
また、我が家のトイレには、お湯と水の蛇口が付いているので、息子はお湯の蛇口、他の家族は水の蛇口という風に分けました。
そして息子の部屋にアルコールスプレーを置き、部屋から出るときは、まず手指を消毒し、常にアルコールスプレーを持ち歩いて、自分が触ったところはその場で消毒させました。
もちろん私も、1日に2回くらい、思い付いた時には、息子が触れそうな所にアルコールスプレーをかけました。
洗濯は、洗剤を使うので、安全であると考えて、全て一緒に洗いました。
以上は、まあ誰でもやりそうな感染防止対策ですが、我が家で一番画期的だったのは、これ!トイレットペーパーの芯です!
このようにして、ドアノブに通して使うと、手を触れる事なくドアを開閉できるのです!
息子は部屋から出る時は、片手にトイレットペーパーの芯、片手にアルコールスプレーを持っていました。
できることなら、部屋から一歩も出したくないのは山々でしたが、孤独と退屈に負けて、リビングに出て来て喋ったりしていました。
それでも家庭内感染しなかったのは、このトイレットペーパーの芯のおかげかもしれません。
なぜホテルは逼迫していたのか?
ところで、余談ですが、どうして東京のような大きな都市で、隔離施設もたくさんあるのに、ホテルが逼迫したり、ホテルの手配に何日もかかったのか、不思議に思いませんか?
今回、息子から話を聞いて、ようやくその謎が解けました。
浅草のアパホテルと言ったら、ある程度の大型ホテルです。一般客はシャットアウトしていると聞いて、私は、ホテル中に感染者がうようよ溢れかえっている図とか、食事の時に何百個も積み上げられた弁当…というものを想像していました。
ところが、実際には、アパホテルが一度に収容している感染者数は、そんなに多くなさそうなのです。
アパホテルは10階建以上のホテルですが、そのうち当時隔離用として感染者がいたのは、ほんの数フロアらしいのです。あとのフロアは全て空室だったようです。
聞いた話ですが、例えば4階フロアに10部屋あって、感染者が10人いたとします。
仮に一斉に入居したとしても、感染者によって、退所までの期間が異なります。
Aさんは順調に1週間で退所しました。でも同じフロアのBさんは3週間退所できませんでした。
この場合、普通だったら、Aさんが退所した後、掃除してすぐに新しい人を入居させますが、コロナの場合、そうはしないらしいのです。
そのフロアの最後の1人が退所して、更に数日の安全期間が過ぎて初めて、そのフロアの全客室の消毒が始まるらしいのです。
つまり、たった1人でも感染者が残っているうちは、そのフロアには次の感染者を入れられないのです。
というわけで、客室の回転は著しく悪くなります。確かに、自分が掃除や消毒に入るとしたら、そのフロアに感染者がいるというだけで、恐怖だと思うので、これは仕方のない措置なのだと思います。結局、消毒という工程がネックなのでしょう。
とにかく、ホテル内では、感染者と非感染者の動線が明確に区別されていて、息子は隔離期間中一度も非感染者の姿を見ることはなかったそうです。従業員や清掃員の安全はしっかり確保されているのです。
私も実際、息子がホテル隔離された後も、しばらくは息子の部屋には近づかず、部屋を締切にしていました。そして息子が帰宅する直前になって初めて、部屋に入って掃除や消毒を行いました。
感染者と暮らして学んだこと
こうして我が家のコロナ騒動はようやく終結したのですが、この経験から私なりに学んだことがあります。
この「with コロナ」の時代を上手く生き抜くためには、必要以上にコロナを恐れることなく、的確にコロナに注意する事が重要だと思います。
私も、我が家のコロナ騒動の前は、コロナをいたずらに恐れていたのですが、まさに発熱中のコロナ感染者と6日間も同じ家で暮らしても、上手く対処しさえすれば、感染しない事がわかったのです。
感染は、目鼻口からするわけですから、万が一手にウイルスが付いたとしても、すぐに石鹸などで洗えば、まず問題ないのです。
感染者の食器を洗っても、洗濯をしても、キチンと対処すれば別に感染しないのです。
ちなみに、息子は、飲み会で感染したとは言うものの、一応彼らは政府の言いつけを守り、人数を4人に絞り、更に自宅飲みにしていました。
息子はその飲み会では感染者の隣に座っていましたが、結果的に感染したのは息子だけだったようで、一番危険と言われっている感染者の正面の席の子も感染しなかったそうです。
どうして息子だけが感染したのかと言うと、どうやら息子は酔っ払ってガードが緩くなり、感染者と同じラーメンを啜り合って食べたらしいのです。さすがにそれはアウトでしょう!笑笑
なぜ政府が「お酒」にこだわるのかといえば、やはりお酒を飲むと、正しい判断ができなくなるからなのだと思います。ジュースやコーヒーとは違うのです。
自粛生活も、もう1年以上ともなると、感染の恐怖はさることながら、抑圧された生活によって精神を病むことも大きな恐怖です。
友人と食事に行くことは、必ずしも悪ではなく、消毒をキチンとして、静かにさっさと食べてからマスクしてお喋りすれば、たぶん問題ないのだと思います。
そして、もう一つ。我が家で家庭内感染しなかった大きな理由は、対処が迅速だった事です。
息子が感染者と触れ合ってから、息子を家庭内隔離するまで、1日半くらいしか経っていないのです。
その間に私が息子と一緒に食事したのは、まだ息子に症状が出る前のたった2回だけでした。
感染者のA君が、迅速に検査を受け、迅速に知らせてくれたおかげです。実際、知らせてくれるのがあと10分遅かったら、私はその時に作っていたスパゲティを、間違いなく息子と一緒に食べていました。
この、スパゲティを一緒に食べたか、隔離して食べたかというのが、我が家の明暗を決める大きなポイントだったと思っています。もしもこの時点で既に感染していたら、この後どんなに家庭内隔離を頑張っても、もはや手の施しようがなかったわけです。
感染しないに越したことはありませんが、万が一ちょっとでも感染したと思ったら、躊躇うことなく迅速に行動するべきです。
このブログを、1人でも多くの人に読んでいただき、少しでも感染予防の役に立てれば嬉しいです。
2021/5/8
南インドの旅②
第一日目〜出国〜
いよいよ出発の日がやってきました。
「なぜ南インドか?」「旅の準備」については「南インドの旅①」をご覧ください。
今回は成田からANA直行便でチェンナイに向かいました。
ビジネスクラス利用のJTBのツアーを利用したので、飛行機も楽しみの一つでした。
ビジネスクラスだと、出発までもラウンジが利用できるので、朝ごはん抜きで空港に向かいました。
ラウンジで待つこと1時間、すっかりお腹いっぱいになって飛行機に向かいました。
ところが、定刻通りに滑走路に向かい、今まさにテイクオフ!
という時に、突然機体が止まり、アナウンスが入りました。
急病人が出たので、このまま登場ゲートに引き返すと言うのです!
本当に、え〜⁉️という感じでしたが、後にこの急病人が今回同じツアーだった人の同行者だと知って、いろいろ内情を聞くと、今では本当にお気の毒だったと同情の気持ちしかありません。
飛行機は、とてもテキパキと引き返し、急病の人を下ろしました。
「おお、なんてテキパキしてるんだ⁉︎これなら、ほとんどタイムロスなしで離陸できるじゃないか!」と期待が高まります。
ところが…
この後、その人の荷物を下ろすという作業が待っていたのでした…
この何百人も乗っている飛行機の荷物の中から、その人の荷物をどうやって見つけ出すというのでしょう…?
考えれば考えるほど、とてつもなく時間がかかりそうです…
結果、想像していたよりはずっと早く荷物が見つかり、1時間遅れくらいで離陸しました。
〜ビジネスクラスのシート〜
私は通常は、勿体無いのでエコノミークラスしか使わないので、ビジネスで行けるのが嬉しくなって写真を撮ってしまいました。
シート間に仕切りがあり、プライバシーが保たれている点が本当に素晴らしい!
席に着くと、いきなりシャンパンのサービスがあり、ちょっと嬉しい❤️
常にエコノミー族の私は、ビジネスが珍しくて、シャンパン片手に自分の領地の探検です。
自分のシート以外にも、個人で使えるスペースがいっぱい!
ちょっとした棚とかが本当に便利!
シート周りにはスイッチがいっぱいあって、リクライニングの角度が変えられたり、座席を前後に動かしたり自由自在。
もちろんフルフラットでベッドにもできちゃいます。
そして程なくして1回目のお食事。
食事の前にはメニューが渡されます。
和食1種類、洋食2種類の中から選べます。
私は洋食をチョイス。
まずはアミューズ。CAさんが4種類トレイに載せて持ってきてくれましたが、私は2つだけ選び、シャンパンを注文しました。
ビーフのワイン煮は、とろける程にお肉が柔らかく、とても美味しかった!
デザートがまた素敵!空の上とは思えぬクオリティのマロンデザートでした。
フライト時間は10時間くらいあるので、この後、映画を見たりして優雅に暮らしました。
フルフラットシートで寝転んで映画を見られて最高!
途中、一緒に行った友人が一風堂のラーメンを食べようというので、注文し、2つのお椀に分けて貰ったり、Ichiro’s moltというウイスキーを頂いたり、盛りだくさんでした。このウイスキーが本当に美味しかった〜
さて、そうこうするうちに、まだ見ぬ楽園チェンナイ国際空港に到着です。
空港に着くと現地ガイドさんが私達を待っていてくれました。これはツアーならではです。
私はいつも個人旅行なので、空港に着いたところから戦いが始まっていたので、ガイドに連れられてなんの心配もなくホテルに辿り着けるのは、なんとお気楽なのかと痛感しました。
これ、チェンナイ 空港です。場末っぽい電飾が、何とも言えません。
なんか、ヤバイところへ旅行に来てしまったのではないかと、ちょっと不安になりました。
バスの車窓から外を見ると、さすが人口13億人のインド!人がいっぱい…!
これが記念すべき1泊目のホテル。
「The Residency Chennai」。
外観は、まあ普通にちょっと高級に見えます。
ベッドも、まあ普通のビジネスホテルレベルです。
トイレとお風呂が、心配でしたが、とりあえず洋式便器とホース式のビデがあり、一安心。
バスタブはなく、固定の極小シャワーのみ!
後で気づくのですが、これがお湯の出が悪く、チョロチョロしか出なくて、髪の毛を洗うのも一苦労でした。
でも、形ばかりとは言え、ボディソープとシャンプーがあったのは、後から思えば凄い事だったのでした。
この段階では、ボディソープやシャンプー、トイレットペーパーがある事を当たり前だと思っていましたが、日を重ねるごとに、認識の甘さに気付いてゆく事になります。
兎にも角にもインドの最初の夜はこうして暮れゆきました。
第2日目
翌朝は朝から国内線でマドゥライ に移動だったので、6時ごろから朝食です。
まだ早朝でホットミールはほとんど準備されてなかったので、私はフルーツとジュース、それに南インドのイケメンお兄さんが入れてくれるチャイをいただきました。
国内線は、ちょっと不安な感じのするプロペラ機でした。LCCだったので飲み物は有料、水は無料ですが、インドでコップに入った水を飲む気になれず、何も飲まずにマドゥライ に向かいました。
マドゥライ では、まず最初に「ティルマライナーヤカ宮殿」を見に行きました。
17世紀に作られた宮殿だそうです。
天井などの装飾も美しく、ガイドさんの説明によれば、ルビーやサファイアなどの宝石の粉で描かれているそうです。
とても繊細で美しいです。
そして、ランチタイム。普通のインドのレストランという感じ。ブッフェ形式でお料理を取ります。基本、だいたいカレーですが、いろいろな食材が使われているので、不思議と単調さはなく、美味しく頂けます。
これはドゥサと言われるもので、米粉のクレープと言ったところでしょうか。コックさんが目の前で焼いてくれます。
ガイドさんのお話では、インド南部の主食は小麦粉ではなくお米だそうで、食事はお米や米粉を使って作られたパンケーキ状の物何主体だそうです。
インドというと日本人はみんなナンを思い浮かべがちですが、ナンは小麦粉で作られるので、南部では殆ど見かけることはありません。
見た目はクレープですが、クレープよりもっとカリッと焼けていて、中にはジャガイモが包み込まれていました。
ペースト状の物を付けて頂きました。
どれも美味しかったです。
お馴染みラッシーもクセもなく美味しかったのですが、インドのラッシーは甘いのとしょっぱいのと2種類あって、しょっぱいラッシーは、一口味蒸させてもらいましたが、酷く不味いものでした。その不味さたるや、本当に飲めるレベルじゃありません!
ランチの後は、ガンジーミュージアムに行きました。きちんと整備されたミュージアムという感じではありませんが、ガンジーの功績を辿ることができます。
私にとって、ガンジーは教科書の中の人に過ぎなかったのですが、ここに行って、実際にガンジーが活動している姿を写真で見ると、現実に存在した人なのだという実感が湧き、インド人のヒーローなのだという事がよく分かりました。
次はマドゥライ 観光のハイライトの一つ、ミーナークシー寺院見学です。
このような巨大な門が東西南北に4つ立っています。
ヒンズー教の寺院の門は、たくさんの彩色された美しい彫刻が施されていて、趣深いです。
いろいろな神様の彫刻が見えます。
この門から寺院に入り、見学するのですが、門の中では写真撮影ができませんでした。
黄金の神殿などもあるのですが、ヒンズー教徒でないと入れない場所が多く、ちょっと残念です。
靴を預けて裸足で歩き回るのですが、熱かったり、濡れていたりで、なにかと大変でした。
もちろん寺院なので肌の露出は厳禁です。
私はノースリーブのワンピースだったので、カーデガンを羽織って行ったのですが、入口のチェックで、足首が出ているのはダメだと言われ、インド人の男性が巻くような腰巻きを巻かれてしまいました。
寺院の周りはインドらしい光景がいっぱい!
インド人は牛を神様と崇めていて牛肉を食べないと言われていますが、本当に牛は大事にされていて、街中でたくさん見かける事ができます。牛と共存して暮らしています。
可愛いタクシー。こんなのがたくさん走っていました。
道端で商売する人たち。
まさにインド!という感じで、普通だったら果物の一つも買って食べてみたい所なのですが、インド人のガイドさんが、道端で売っている果物などは、お腹を壊す可能性があるので食べないようにと言っていたので、さすがに買う勇気はありません。
そしてこれが本日のお宿、Hotel Germanus 。
一見普通ですが、やはりシャワーが使いにくいし、バスタイムはストレスでした。
晩御飯のバイキング。結局カレーです(笑)
第3日目
3日目の朝は6時起きして朝食を食べました。
もちろんカレー(笑)
そしてインド最南端のコモリン岬までバスで移動。改めて思ったのは、インドって大きい!なんと言ってもこの日の移動時間は6時間!
幸いこの「デラックスバス(笑)」にはエアコンが付いているので、暑さで死にそうになる事はなかったので、良かったです。
それにインド人ガイドさんは、めちゃくちゃ日本語が上手い上に、めちゃくちゃ博識で明るい性格で、いつも私たちを退屈させないように、いろいろな話をしてくれるので、6時間もあっという間( とは言わないまでも、まあそれほど長くは感じませんでした。)
途中で下車してランチに「ミールズ」というインド式ランチセットをいただきました。
大きなトレイにバナナの葉を敷いた上に、たくさんの小鉢に入ったお料理が並んでいます。
とても壮観です。美味しそう…!
インド式の正しい食べ方は、このように一旦全部の小鉢を外に出して、真ん中にライスの小鉢をパカッとぶちまけ、そこに好きなカレーなどをかけて、右手の人差し指以外の四本指を使って手掴みでいただきます。
お味は、もちろん美味しかったです。いろいろなカレーが楽しめるのが良かったです。
そしてバスに揺られる事6時間以上…ついにコモリン岬に到着!
コモリン岬はとても美しい街で、インドというよりヨーロピアンな色彩に溢れていました。
小さな穴から写真を撮ってみました。
この岬からフェリーで島に渡ります。
こんな観音様のようなものが立っているだけの島もありましたが、今回はここにはいかず…
こちらの小さな島に渡りました。
瞑想をする建物が建っていて、私達もここで怪しい呪文を唱えながら、インドの人達と一緒に数分間の瞑想をしました。
そしてひとまず、今夜の宿へ向かいました。
Hotel Singaar International 。
ここのホテルは、改装中なのか、部分的に取り壊されていて、まるでゴーストタウンのようで、ちょっと恐ろしかったです。
しかもエアコンは調子悪いし、女2人なのにダブルベッドの部屋を当てられたり、なんだかもうめちゃくちゃでした。
結局、文句を言って、なんとかエアコンのつくツインルームに変えてもらいましたが、シャンプーもないし、ドライヤーも館内に4つだけあるということで、順番に部屋から部屋へ使い回しという、とんでもないものでした。
これが日本だったら大問題ですが、まあここはインドという事で、使い回しでもドライヤーが使えただけラッキーだと思えてしまいました。
旅も3日目ともなると、インド文化に対して免疫力が上がってきたようです。
でもこの部屋、バルコニーがあって、バルコニーからのビューは素晴らしかったのです。
さっきフェリーで渡った島も見えます。
そして夕方になってから、バスでサンセットポイントに向かいました。
インド最南端の有名なスポットのようで、インド人もたくさん集まってきて夕陽を眺めていました。
そしてホテルに帰って晩御飯。もちろんカレー!
この頃になると、なんとなく22人のツアーメンバーの顔もわかるようになり、食事の時も一緒にビールを注ぎあって盛り上がるようになってきました。ツアー初体験の私としては、これはなかなか面白い事でした。
たった3日目にして、メンバーの人となりが、なんとなくわかるようになるのです。
第4日目
そしてこれは翌朝の朝ごはん。
そしてこの日は、またバスに揺られて、アレッピーへ向かいました。また7時間くらいの苦行です。
途中、お昼ごはんも食べましたが、もちろんカレー。
そしてついにアレッピーに到着!ここでは、この旅の1番のハイライト、バックウォータークルーズが待っています!
私もこれを一番楽しみにしていました。
何しろ、ちょっと30分クルーズするとか言うのではなく、クルーズの船に一泊するのです。
しかも、それがいわゆる豪華客船ではなく、大昔、スパイスの運搬に使われていたハシケのような小舟を観光用ボートに改装して、宿泊できるようなものにしたものなのです。
1グループに1ボートだと思っていたのですが、そうではなく、2つか3つのグループで1ボートとなったので、誰と同じボートになるかが、ちょっと気になる所でした。
私達は、一番大きなボートで、6人乗りでした。
部屋はこんな感じ。
夜間はエアコンが付くので、涼しいのですが、エアコンが使えない昼間は暑くて、デッキやサロン(そんな洒落たものではないけど)に出て自然の風を楽しみます。
各部屋に一応トイレもシャワーも付いています。
荷物を下ろしたら、早速クルーズ開始。この水辺には実際にインドの人が住んでいて、洗濯物が干してあったり…
小舟にはコックさんも乗っていて、私達6人のために食事を作ってくれます。
これはウェルカムドリンクならぬ、ウェルカムバナナ天ぷら。不味くないけど、バナナの味はほとんどしなくて、何食べているのかわからない味でした。
途中でちょっと下船して、フィッシュマーケットで魚などを選ぶと、コックさんが晩御飯に出してくれます。
この大きくて立派な海老を購入。
ココナツジュースを買ってみましたが、生温い薄いポカリみたいで美味しくない…
船上から見る夕陽はとても素敵!
そして晩御飯!
さっきの海老も茹でられて登場!
野菜や魚などいろいろ…
そして夜は更けて行きました…
第5日目
そして翌朝。朝ごはんは、こんなパンケーキとか卵とか、簡単なメニューでした。
下船後、バスでコーチン(コーチ)に向かいました。今度は2時間くらいなので、6時間の移動に慣れっこになった私達にとっては移動のうちに入りません。
コーチンではスパイスマーケットに行き、お土産のスパイス私購入。観光地値段だったので、私は1つだけ購入。お友達へのお土産は、スーパーで買うことにしました。
それから、チャイニーズフィッシュネットを見に行きました。昔、中国人がこの地にやってきて、ネットを沈めて、それを引き上げるというシンプルな漁法で魚を取っていたそうで、今でもそれを見学できます。
流石にこの方法では、たくさんの魚は捕まえられないようでした。収穫はほんの僅か…
そして最終日、コーチンの宿に到着です。
Abad Atrium Hotel。
不便な暮らしに慣れてしまった私たちにとっては、どんなホテルもでも、もはや驚くことはありませんでした。
夕方まで、近所を各自散策し、夕食前に南インドの伝統舞踊「カタカリダンスショー」を見に行きました。
これは、大きな動きではなく、細かな顔の表情などで演技するインド流の歌舞伎という感じの舞踏です。
ただ、私はこの時間にインドエステにアーユルヴェーダを申し込んでいたので、この舞踊見学もそこそこに、エステに向かってしまったので、15分くらいしか見られませんでした。
同じツアーの人曰く、別に見なくても正解だったかも…との事でした。笑
アーユルヴェーダのエステは日本円で1万円なので、本場インドの凄いエステなのではと、物凄い期待をしていたのですが…
サロンに到着すると、あまりにも若いお姉さんに、いきなり全裸になれと言われ、お姉さんの見ている前でおずおずと全裸になります…
するとお姉さんが、紙製のフンドシを締めてくれて、まずは髪の毛に茶色い変な匂いのオイルを塗りたくります。
トリートメントとかいうレベルではなく、物凄い量のオイルをベタベタに髪にすり込んでいきます。
それからベッドに横になり、さっきのオイルを全身に塗りたくり、マッサージを受けます。フンドシで覆われた部分以外は、全身をくまなくマッサージされます。
それから仰向けで横になり、額の上からポタポタと熱いオイルを垂らされます。アーユルヴェーダのエステの写真を見ると、だいたいこの画像が載っているので、私もこれを楽しみにしていたのですが、実際やってみると、ベタベタ熱いだけで、なんの快適さもなく、個人的には「ナシ」でした。
そして、この後どんな気持ちの良いトリートメントが待っているのかと思いきや…
この変テコなスチームサウナに入れられて、蓋を閉められます。
この穴から顔だけを出すのですが、中は暑い蒸気で満たされ、とても熱いのです。
身体のオイルは、この蒸気でかなり洗い流されます。
…が、決して全身スッキリ!というものではないのです。何しろ髪の毛や顔がオイルでベタベタで本当に気持ち悪いのです。
このサウナを出ると、お姉さんが乾いたバスタオルで頭から脚の先まで拭いてくれます。
でも、相手はベタベタのオイルですから、乾いたタオル如きでキレイになるわけがありません。
でも、それこそ、髪の毛から、まだオイルが滴り落ちる状態で「おしまいだから服を着て」と言われ、目が点になりました。
幸い、サロンは泊まっていたホテルの別館だったので、グチョグチョのまま、走って部屋に戻り、慌ててシャワーに飛び込みました。
ところが…!
シャワーベッドからシャワーが出ないのです!
どう頑張っても、下のカランからシャワーに切り替えられないのです!
仕方がないので、高さ40cmほどのカランの出口の下に潜り込んで、髪の毛を洗いました。
それはもう、困難極まる作業で、全くスッキリしません。
でも次にベタベタの身体を洗う段になると、もはや流石に小柄な私でも、カランの下には潜り込むことができません。
私は1人、バスタブの中で七転八倒し、まさに火事場の馬鹿力!ついにシャワーベッドからお湯を出す事に成功しました。
こうしてめでたくシャワーを全身に浴びる事には成功したのですが、何しろオイルの量が半端なく、洗っても洗っても全然キレイにならず、オイルの臭いも消えず、スッキリしないままにシャワーを出ました。
まさに最悪の気分…1万円も払ってエステで、こんなにスッキリしないのは初めてでした。
…というか、1万円くれても、二度とやりたくない最悪のエステでした。
シャワーの後、気を取り直して、ディナーに行きました。ディナーブッフェは、とても美味しく、このツアーでは一番美味しいと感じました。食後に頂いたチャイも、初めて美味しいと感じました。
第6日目
そして夜が明け、ついに最終日!
コーチンから国内線でチェンナイに向かいました。
フライトの時間が夜8時過ぎだったので、チェンナイでは、ちょっとのんびりできました。
ランチは、またインド料理のミールズでしたが、ここのミールズはとても美味しくて大満足でした。
こうして1週間過ごしてつくづく思うのは、「カレーは偉大な食べ物だ!」という事でした。これだけ毎日、類似した物を食べ続けたら、普通だったらウンザリするところですが、カレーは1週間食べ続けても、ウンザリしないのです。
カレーは本当に偉大です。
ランチの後は、マリーナビーチへ行きました。
出国前なので、さすがに海には入りませんでしたが、人の少ないビーチと、青い空、青い海は、気持ちが良かったです。
最後にショッピングモールに寄り、各自最後のショッピングをしました。
私はツアーの最初に5000円分だけインドルピーに換金したのですが、それを使い切るために、バナナチップやドリンク、スパイスなどを買いました。
そしていよいよ出国です。
いろいろ不便なことも多く、お世辞にも快適な旅とは言えませんでしたが、この旅でも多くの収穫がありました。
一緒に旅した22人、そして現地ガイドさんともお別れです。
グループツアーなんて…と思っていましたが、それはそれで、個人旅行にはない良さもありました。
実際、こんなツアーじゃないと、知り合う可能性のないような別世界の人とも仲良くなれて、本当に良かったです。
帰りはまたビジネスクラスです。
はっきり言って、このツアーで豪華で優雅な気分を味わえたのは、飛行機だけでした。笑
晩御飯は和食を選びましたが、ほとんど残してしまいました。
お酒は本当にクオリティが高く、帰りのフライトでは、シャンパンに加えて、日本酒を2種類いただきました。
八海山は文句なく美味しかったのですが、他の方から勧められて飲んだ希少価値のある山廃五百万石は、クセがあり過ぎて、私にはちょっと…でした。
夕食の後、座席をフルフラットにした直後には、爆睡してしまったようで、気づいた時には既に朝食のオーダー取りが終わっていました。
なんと、もう着陸1時間半前だそうで、一体私は何時間爆睡したのやら…
せっかくのビジネスクラスを楽しむ間もなく、ただただ気持ち良く寝てしまったようで、ちょっと残念でしたが、本当によく眠れました。
第7日目
朝食は、もちろんまだお腹が全く空かないので、簡単なクロワッサンサンドをオーダーしたのですが、メニュー変更とかで、えらくボリューミーなパンになっていて、全然食べられませんでした。
食べ終わると、程なくして、成田に到着しました。本当にあっという間でした。
土曜日の早朝到着便だったので、帰りも空いていて、楽ちんでした。
今回、一番心配していたのは、お腹を壊さないかという事だったのですが、ラッキーな事に、お腹を壊すこともなく、元気に行って元気に帰ってくることができ、ホッとしました。
いろいろ不便も多かったけど、本当に楽しい旅でした。つくづく思うのは、「旅は友」だということ。仲の良いお友達と一緒に行けば、どんな所も楽しい!一緒に行ったお友達、そして旅を通して出会った人達には本当に感謝の気持ちしかありません。
2020/2
南インドの旅①
〜なぜ、インドか…⁈〜
1月26日から友人と2人で1週間の予定で南インドの旅に行って来ました。
なんで南インド⁉︎というと、昨年10月からANAの成田チェンナイ直行便が就航開始したので、そのキャンペーン的商品として、JTBから「美しきまだ見ぬ楽園 南インド7日間」というプランが出てきたのです。
友人に言われて調べてみると、往復ANAのビジネスクラス利用なのに1週間で20万程度!しかもインド内の移動や食事も全て含んでいるんです。
私はもともと、自由度の少ないツアー旅行には興味がなく、今までも職場の旅行など以外では、いわゆるツアー旅行には参加した事がなかったのです。
ツアー旅行って、どうしても、ガイドさんが旗持って、ゾロゾロ歩くイメージ何強くて…
でも、考えてみると、インドのような、いわゆるちょっと危険な地域に行くなら、ツアーじゃないと痛い目に遭いそうな気がして…
そんなわけで、友人と共に、このツアーを即刻申し込んだのでした。
〜旅の準備〜
①ビザの申請
日本のパスポートは、世界一信用があって、これさえあれば、世界中ビザなしで旅行できると思っていたのですが…
なんと、インドはビザが必要なんです!
ツアー申し込み時に、JTBにお願いすれば、1万円くらいで手配して貰えると書いてありました。
が…
私は自力でビザを取ることにしました。
1万円が勿体無いと思ったのはモチロンですが、自力で取るのも面白いかなと思ったからです。
旅行といえばビザなしが当たり前なので、これを逃したら、もうビザを取りに走るなんて経験はできないかなと思ったのです。
早速、ネットで調べたところ、まず申請書のフォームをネット上で入力して、ダウンロードした申請書と写真とフライトのeチケットを持って、インド大使館へ行けば、2〜3日でビザが発行されるようです。
という事で、フライトのeチケットが届くとすぐに、オンラインで申請書を作るという作業に入りました。
ところが!これが、なかなか手強い物でした!
何が手強いのかというと、まず、ページはモチロン、全部英語です。
そして、とにかく記入項目が馬鹿みたいに多いのです。なんと80項目もあるんです!
学歴や仕事についてくらいまでは、まあしょうがないなあと思えるのですが、話は両親の事などにも及んでいくのです。
私は何とか無事に記入できましたが、友人は、タイムオーバーで途中でやり直しになり、ご主人にやってもらったそうです。
後日、インドに行った際に一緒のツアーになった人達も、自力でやった人達は皆、苦労したと言っていました。
予め、何て書くかを考えておかないと、途中で焦ります。
とりあえず、ビザの申請は、この書類作りが山場なので、ここさえクリアしてしまえば、あとは申請用の書類をプリントアウトして、写真の準備をすれば、もう大丈夫です。
あんなに記入した割には、プリントアウトで出てきた書類はたった2ページなんですね。
ちなみに写真は、5×5という奇妙なサイズです。普通の証明写真とは違うサイズです。
私は面倒なので、家の白い壁の前で自撮りして、アプリを使って、コンビニのコピー機で写真として印刷しちゃったので、たった200円で済みました。
いろいろアプリがあるかと思いますが、私は「ピクチャン」というアプリを使いました。
簡単でお金もかからず便利でした。
では、次はいよいよインド大使館に乗り込みます!
私は東京在住なので、申請は九段下のインド大使館になりますが、関西方面の方は、また別の場所になるようです。
申請は、平日の午前中のみという事なので、待つのも嫌なので、9時のオープン時間ちょっと前を目指して行きました。
でも、建物の入り口がわからず、うろうろしているうちに、既に私の前には6人も…私は7番目。
でも、意外と早く順番が回ってきて、書類を提出。
更にその場で写真撮影と左手4本指の指紋を採取されたのですが、私の指紋は薄いのか、なかなか指紋が取れません。
しまいには窓口の人が外に出て来て、指紋採取器を掃除したり、私の指もウエットティッシュで磨いたりなどして、20回くらい頑張った後にようやくokが出ました。
後日、元警察官の友人に聞いたところ、指紋は、手が乾燥していたり、皮膚が黒すぎるとうまく取れないそうです。
やれやれ…
そこからは、ひたすら待たされ、結局はトータルで1時間くらいかかって、ビザの引換証を手にする事ができました。
金曜日に申請して、交付は火曜日となっていました。
〜ビザ交付〜
2日後にはビザはできていたのですが、行く暇がなく、結局2週間後くらいに受領に行きました。
受領は、なんと平日の午後4時から5時と、非常に限られた時間しかオープンしていないので、ちょっと不便です。
だから、高いお金払ってでも、旅行会社にお任せにしてしまう人が多いのでしょう。
私は4時ちょっと過ぎに行ったのですが、すでに16番でした。
でも交付はあっという間で、どんどん番号が進むので、大して待つこともなく無事にビザをゲットしました。
パスポートにデカいシールがドーンと貼り付けられているのを見た時はほっとしました。
これであとは出発を待つのみとなりました。
インド旅行については、「南インドの旅②」をご覧ください!
2020/2
初詣第二弾〜靖国神社〜
お正月に、近所の神社に参拝したのですが、残念な事におみくじがなかったので、1月も半ばになって、もう一度初詣に行きました。
今回は、ちょっと遠いけど家から徒歩で行ける靖国神社にチャレンジ。
靖国神社には以前一度行ったことがあるのだけど、当時は子供が小さかったので、参拝どころではなく、どんな神社だったかすら全く覚えていない…!
でも、行ってみると、この巨大な鳥居には流石に見覚えがありました。
神社の鳥居と言ったら、だいたい木造で年季が入った感じの物が多いのに、靖国神社のこの無機的な円柱の組み合わせでできた巨大鳥居は、とても特別な感じがします。
鳥居をくぐると、ど真ん中に銅像がそそり立っています。
戊辰戦争で長州藩の指揮をし、勝利の立役者となったほか、後に兵部省の初代次官を務めた日本陸軍の創始者だそうです。
初っ端から、軍隊の匂いがプンプンしてます。私は右翼でも左翼でもないので、特になんの感情もありませんが…。
本殿に向かって右側を歩いて進んでいくと、慰霊の庭があり、たくさんの桜の花の形をしたオブジェが置かれています。
2019年に創立150周年を記念して、日本の各都道府県の土を使って陶芸家が作った慰霊の意味を持つ物だと書かれています。
どれも美しく、自分の故郷の物を見つけたりするのも楽しいです。
それからしばらく行くと、左手に手水舎があるので、そこで手と口を清めます。
いよいよ本殿かと思いきや、右手の方に何やら楽しげな物が…!
各県から献上されたお酒の銘柄が並べてありました。
米所の新潟県や、薩摩焼酎の鹿児島県は、やっぱり頑張ってます。
その近くには、全国の神社の絵馬が並んでました。ついつい自分がお参りした事のある神社や、地元の神社を探してしまいます。
そして、ついに本殿に到着しました。
もう一月も月半ばという事で、全く混んでいませんでした。
後ろから追い立てられることもないので、お願い事し放題です。
それから、おみくじを引いてみましたが、良くも悪くもない「末吉」で、なんだか拍子抜けしてしまいました。
今回のお参りのもう一つの目的は、実はこの本殿の裏にある「遊就館」です。
博物館のような物で、参観には大人1000円もかかるので、ちょっとお高いのですが、1Fエントランス部分は無料で開放されているのです。
ここに本物の零戦があるというので、行ってみると…
いきなり、ドーンとありました。
こんな小さなプロペラ機に乗って孤独と戦いながら、戦争に行った若者たちの事を思うと、心が痛みます。
隣には、操縦席も展示されていました。
こんな金属製の居心地悪そうなシートに座っていたのですね。
シートの背中の窪みには脱出用パラシュートを充填していたと書いてありますが、果たしてこのパラシュートで脱出する事なんてあったのでしょうか?
蒸気機関車も展示されています。
本物の銃砲もありました。
近くに行ってよく見ると、相手から被弾した時に負った生々しい銃創がいくつもありました。
更にこの傍には、お土産コーナーもあったのですが、いわゆる日韓問題で度々話題に上がっている例の旭日旗グッズが、山ほど並んでいました。
ただ、旭日旗と同様に日の丸の旗も並んでいるわけで、当時の軍艦も、前後に両方の旗を立てていたという事なので、旭日旗にばかり目頭立てて怒るのは、どんなものなのか…と思いました。
なんだかんだで、普段は戦争には全く興味もない私でも、いろいろな事を考えさせられました。
この後は、靖国神社から程近い「トニーローマ」で食事をして、帰路につきました。
今年も良い年になりますように。
2020/1